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2010 年4 月28 日

ナビを使う

 本題に入る前に、明日から人並みにGWとさせていただき、再開は5月10日からとさせて頂きますことをお許しください。
 お許しが無くても、そうしてしまいます。  (^。^)

 前から欲しかった「ナビ」を買ってしまいました。
 今までのもので「何かが足りない」と思っていたことが解決したからです。
 足りないと言うか、踏み切るまでの力が湧かなかったことの一つには、当然「価格」でした。
 物自体の価格ももちろんですが、取り付け費用などが結構掛かるのです。
 それだから、一旦取り付けてしまうと、他の車で使うことが出来ません(というか相当の体力と技術が要求されそうです)。
 「あれば便利だろうけど、それならその分で地図を買ったほうが良いだろう」と言う結論にしてしまっていたのです。
 ところが、あるクイズ番組で「自転車にも取り付けられ、ウォーキングにも使える」という物を見つけたのです。
 そうです、もう一つ足りないものに気が付かなかった私に「これだろう」と後押ししてくれたのは「ウォーキングにも使える」と言う機能だったのです。 
 そんなものですから、取り付け、取り外しは簡単で、充電式電池で約4時間使え、歩くモードに設定すれば、かなりの細道も示してくれますから、直ぐに飛びつきました。
 買った店を出て直ぐにシガーライターソケットで使い始めて、もう約3週間になりますが、現在のところ快適至極です。
 これから、家内と時々出掛ける場所で「見て歩き」をする場合でもかなり有効だと今から楽しみです。
 ちなみに今年の家内と出掛ける先は南九州です。
 これさえあれば、迷子(爺婆)にはならないだろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :44 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年4 月27 日

多色ボールペンの一部インク切れ

 手書きでの書き写しも、どんどん広がって愉しんでいる。
 そんな中で、先日長い間愛用していた多色ボールペンの「太黒」のインクが切れてしまった。
 まだその時には「『細黒』があるから良いや」と殆ど気にしなかったのだが、そのうちに「赤」が切れてしまった。
 でも、まだ「青」があるので、「少し困ったな」くらいでまだまだ使えるとやっていたのだが、やっぱり在職中からも「赤」は多用してたので、無いと困ることに気が付き、結局多色のそれには、ひとまず常時使用のお役を退いてもらった。
 ずいぶん昔の高価なボールペンを使っていた頃には、「替え芯」を買って使い続けたものだが、最近のものは手頃と言うよりも「こんなに安くて良いんですか」というくらいの値段のものばかりなので、替え芯の方が高価だったりする。
 常時使用のお役は退いたものの、矢張り「青」や「細黒」が必要な場合には登場願うのだが、あれほどお世話になった「太黒」や「赤」の存在が邪魔になってくる。
 何とも勝手なものだと思いはするのだが、本格的に「排除(抜き取り)」してしまうと、残った芯がぐらついて全体が使い物にならなくなってしまう。
 だから、慌てて捨てたものを拾ってきて「無用の用」に貢献してもらうことになった。
 これって、どうもボールペンばかりではなく、何にでも言えるのではないだろうか、とまたまた余計なことを考えてしまう。
 「邪魔な物」でも「無用の用」に立っていると思えば、それなりに大切にする必要があるだろうし、それはこちらが受身の場合も言って欲しいと願うばかりである。
 でも、結果からいうと、4色のボールペンの全てのインクを先日完全に使い果たしてしまった。
 「感謝」を忘れずにゴミ箱へ退いてもらったのは、いうまでもない。

投稿者:つねちゃん
at 09 :40 | 学習 | コメント(0 )

2010 年4 月26 日

仕分け作業に期待したい

 事業仕分けの第二弾が始まった。
 マスコミ各社や野党は例によって「ここが足りない」「ここが未着手なのはおかしい」などと非難ごうごうだが、私は素直に期待したい。
 だって、何処から遣ろうが、「一挙に」と言うのは不可能なことだろうし、もしそんな風に遣ったら、それこそ十分な見解を持ち合わせていない輩の格好の餌場となり兼ねないだろう。
 私なりにこの目的だと思うのは、確かに財源の捻出もあるだろうが、そうではなく、国民に「こんな風になっているのですよ」と言うことを知らしめる事だと思う。
 天下りにしたところで「良い所に行かれましたねぇ」で済んでいたことが、果たして正しかったのだろうか、と言うことに疑問を持たせることだと思うし、名前貸しだけで多額の税金が使われていて、そのツケの殆ど全てが国民の負担になっていることを気づかせることだろう。
 仕分けられる側にとっては「既得権益」の侵害になるだろうが、それを「既得」だと思うこと自体が誤り(少なくとも一般社会通念上は揺るされることではない)だったこと自体に早く気が付き、「改めるの遅い事は無い」との格言により、極力遡って返済なりの責任追及をすべきである。
 また、現実のお金などが返らなくとも、国民にそれを知らしめることが必要だし、第三弾、第四弾と続けることを明確にしておけば、今までノホホンとしていたお役人や閣僚(支持団体としての後援金なども入るだろう)もおちおち「今までどおり」と言うことが出来なくなるだろう。
 それでこそ、これからの無駄な支出の抑制に繋がることだろうと期待する。
 ただ、「議員削減」だけは、個人的に良しとはしない。
 議員報酬を半減して、議員はむしろ倍増すべきだと考えている。

投稿者:つねちゃん
at 07 :11 | 政治への注文 | コメント(0 )

2010 年4 月23 日

受け狙いのマスコミ

 「遅いだろう!」との指摘を承知で書かせてもらうが、最近気が付いた事に、マスコミの「無責任さ」がある。
 ずいぶん昔になるが、ノーベル平和賞をもらった時の総理大臣が記者会見でNHK以外のマスコミを締め出したことも、強ち間違いではなかったのではないかと思うほどである。  もちろん「見せられている」紙面や画面上だけでは気づかないことであり、それを良い事に、場合によっては「嘘八百」に使い様なことが報じられているのではないかと、下衆の勘繰りもしたくなってしまうのは、私ばかりではないのではないか。
 まずは、取材態度である。
 「知る権利」とか「知らせる権利」とかで取材対象が嫌な思いをしようが、それによってわが子の良い所を撮影できないような事態になっても構わずにカメラを構えてしまうことであろう。
 また、政治屋に対する質問についても、子供以下の質問をしていることが散見される。
 少し前の「秘策とは何ですか」、最近は「腹案を教えてください」というのは、聞いていて「日本語を判っているのだろうか」と思うばかりである。
 その結果、中途半端な内容しか聞き出せないので、自分の都合の良いところばかりを「切り張り」してニュースとして報道してしまう。
 結果として、アジテーション目的の記事ばかりになり、後で「そんな事は意図していない」と言うことになっても、それをすら「バラエティ」番組に仕立てる強欲さである。
 ネット社会で新聞が無くなるのではないかと言う意見もあり、十分ネットを使用している私でも矢張り新聞は永続して欲しいと思うのだが、こんなことなら矢張り必要ないのだろうかと思いたくなってしまう。
 紙面の都合や制約された時間内でという課題はあろうが、「憶測無く、正しく伝え」た上で、各社の意見を載せることが正しいと思うが、取材相手の揚げ足取りばかりしていたのでは、結局誰も見向きしなくなるのではないかと危惧するばかりである。
 もっとも、こう言っているこの内容自体が「アジテーション」ではないかといわれると、大きな反省もせざるを得ないのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :23 | 報道 | コメント(0 )

2010 年4 月22 日

孫の目覚まし時計

 小学生になった孫は、今までの保育園よりも1時間ほど早く登校することになった。
 集団登校の集合場所は近くの幼稚園の前だが、家はキッチリ7:30には出なければならない。
 というこで、自発的に「目覚まし時計が欲しい」と言ったそうで、今流行のお好みのキャラクターが書いてあるものを買ってやったようである。
 それが毎朝6:30に鳴るのだが、鳴り方が、初めは小さな音が、次第に大きくなって行き、音と音の間隔が短くなってくるものである。
 孫は隣の部屋で寝ていて、「将来は二部屋続きに出来るように」と言うことで、間の壁には殆ど遮音効果が無いものである。
 殆どの場合は、私のほうが先に起きており、「あぁ、鳴っているな」と微笑ましく思っているうちに、自分で停めてほんの暫くしてから「トコトコ」と階段を降りてゆくのを聞いている。
 先日、何時まで経っても鳴り止まず、こちらの癇にも触るほどの大きさと頻度で鳴り続けていたのに、停める気配もないし、いつもなら反対隣に寝ている家内が止めに来るのだが、それもなしで、結局停めに行くとともに起こしに行った。
 孫が寝ぼけ眼で「今日は学校が無い日だ」と言うのを聞いて、そういえば防犯の街頭指導で頂いている予定表に「学習参観日の代休」とあったのを思い出して「ごめん、ごめん」と詫びて、アラームだけは停めさせてもらって、部屋に戻った。
 それにしても、すぐ耳元でなっているのに本人が、2段ベッドの下で寝ている妹が、あのけたたましいほどの音に、まったく起きる気配がなかったのは、たいしたものだと思うしかない。
 時計で起きてから出掛けるまでの孫のスケジュールは中々たいしたものである。
 先日の「登校点検表」とともに、今から癖をつけておけばより良い生活が出来るだろう(かな?)。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
at 10 :02 | 健康 | コメント(0 )

2010 年4 月21 日

鉛筆は削って使う

 「書く」と言うことは、色々と発見があることは、今までも書かせてもらった。
 今までは、裏がツヤツヤの折込チラシを中心に使っていたので、筆記具はボールペンが殆どだった。
 折込チラシはまだB5に切って、原稿用紙としての方眼を印刷していないものがあるが、以前の鉛筆が使える用紙も同様にしたものがあったので、筆記具を鉛筆にして最近使い始めた。
 ところが、父が残したものに、uniの替え芯型鉛筆がずいぶん残っていたので、その消費を優先することにした。
 話は、例によって反れるが、このタイプの鉛筆をご存知だろうか。
 父がこれを使っていた直接の現場を見たことは無いが、高校生の頃、製図実習でこの鉛筆は一つの「憧れ」だった。
 とても高価なものだったので、結局使うことは無かったが、父の遺品の整理をしていた時に出会ったのは、奇遇だったし、愉しく思ったものだが「今更鉛筆ぅ」などと実用性に疑問を持ちながら今日まで来た。
 少し使うとすぐに字が太くなってしまうのが玉に瑕で、挟んで回しての鉛筆削り器では簡単に出来ないので、カッターなどでいちいち削らなければならず、ついつい「太くても良いか」と言うことで書き続けるのだが、太くなるのと比例したかのように、元々乱雑な文字がどんどん「丁寧さ」を欠いてしまって行くのに気が付いた。
 これでは、折角の「書く」と言う楽しみが半減してしまう。
 で、まだ大分芯は残っているのだが、消費し切るまでは「削って使う」ことで、丁寧さを確保しながら書く楽しみを味わって、心にもそれだけのゆとりを持ちたいと思っている。
 でも、本音は矢張り「メンドクセェー」であるのは、凡人の凡人たる所以であろうか。
 「それもまた愉し」と思えるまでには、まだ掛かりそうである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :11 | 学習 | コメント(0 )

2010 年4 月20 日

今日は何の日

 日々の予定の殆どはOutlookで管理している。
 その中で、殆ど毎日「何かの日」なので、愛読しているメールマガジンからの抜書きなどを書き留めている。
 実はこの癖は在職中からのものである。
 当時は(今でも使用頻度は減ったものの使用しているのだが)PIMとしてSHARPのPI3000というものに記録していた。
 これは、お客様との話題が無い時の接ぎ穂として「明日は何の日」をいろんな資料から見つけては、メモしておき、話題になりそうなことに関してはホンの少しだけど学習しておいた。
 これによって「いゃぁー、まるっきり聞きかじりなんですけど」と話題にすることが出来た。
 正直なところ、実績の幾許(いくばく)かはこの「俄か物知り」の功があつたのかもしれないと思っている。
 人それぞれで「話の接ぎ穂」は持っていて、時には相互に交換したりもしたものだし、何人かの後輩が、お客様との会話の要領を聞きにきた時に教えたりしたものである。
 前述の通り、当時は「明日は何の日」だったのだが、現在は「今日は何の日」が判れば良くなっている自分に気が付いた。
 でも、これだけでも結構役に立つ。
 出掛けるにしても10時前と言うことはあまり無いので、俄か知識を仕入れるのに困らないし、そんなに接ぎ穂が必要な方に気を張りながら(こちらから話しかけねばならない、という義務感)構える必要も無いのだから、気軽なものである。
 今年初めに、ふとしたことでこのぎっしり詰まった予定表のファイルを紛失してしまった。
 で、心機一転、またメルマガや書き写しの材料にしている暦からボツボツと書き写して愉しんでいる。
 長く続ければ、結構タイミングよく思い出したりするから、お金の掛からない趣味としてもお勧めである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :30 | 学習 | コメント(0 )

2010 年4 月19 日

店仕舞いのお店

 我が家としては結構足を運んだ大型のスーパーが店仕舞いする事になった。
 好きな要因の一つは、家内が昔ほどではないけれど「人酔い」する性質だったので、比較的空いている事があった。
 でも、「空いている」と言うことは流行っていない=経営的に難しい状況だと言うことである。
 それはさておいて、だいたいこの頃に催される「閉店セール」に行ってきた。
 もちろん、セールが始まった時は人が込み合うので、それが大分落ち着いただろう頃にである。
 人が治まっていた分、品物も閑散としていたのだが、その「閑散さ」と言うものに驚いてしまった。
 野菜棚にはそれなりに並んでいるのだが、いわゆる「売れ筋商品」以外は殆ど見られない。
 かつては、他の店には無い、金沢色のあるものがあったので、好きな要因の一つだったのだが、全くと言っていいほど並んでいなかった。
 生活用品の棚には品物が約3割程度しか並んで無くて「ガラーン」としていた。
 スーパーでこれほど品物が並んでないことは始めて見た。
 その反面、100均のコーナーがあるのだが、そこには以前と同様に棚一杯の品物が並んでいたのが印象的だった。
 多分ガランとした棚のものは売れたのではなく、どこか他の系列店などへ引き取られたものだろうが、100均の品物はその対象にすらされなかったと言うことだろうか。
 そんな風に考えると、経営と言うものの厳しさと悲哀がひしひしと感じられる。
 幸いにして、後には矢張りスーパーが入り、従業員の方たちは職を失うことは無いとのことだが、ぜひ特色を出しながら永続性のある経営を期待したいものである。

投稿者:つねちゃん
at 10 :36 | 日記 | コメント(0 )

2010 年4 月16 日

警察の対応

 もう4年前になるが、交通安全協会の支部役員をしていた時に度々警察署に併設の協会へ足を運んだことがあるが、その時は直接警察官との対話は無かったし、安全講話を頼んだ時には、作り笑顔で対応されるのがすぐに判り、じかに対応することは無かった。
 最近になって、携帯の紛失と運転免許の更新で、直接警察官およびそのOBと思われる人と対応することになり、少し驚くと共に腹も立った。
 携帯の紛失とその届ける時の電話対応では、最初は横柄な声で対応していた人が「会計課長に代わるから暫く待って」と言う。
 紛失物なのに何故会計課長なのかさっぱり判らずに待っていると、対応された会計課長さんは、言葉は丁寧なのだが、「本当か、本当か」と疑いの雰囲気が伝わってくる。
 こちらに非があるので遜って対応していたらどうもそれらしき物が届いているとのことから、考える余裕もなく感謝の一点張りだった。
 窓口へ取りに行くと、こちらは遜っているのだが、電話とは全く違った優しい対応だったのが、妙に「付け焼刃」的な感じがした。
 でも、警察は疑うことから始まる、と言うのはある意味当然なのだから、納得も出来た。
 次に、運転免許の更新手続きである。
 こちらは警察OB、OG含めて全て「上から目線」の対応だった。
 最初に驚いたのは、免許証のケースを選ぶ時である。必要ないと言う訳に行かないのかと聞くと「サービスですから」と変な返事。
 次は、これは昔と変わらないのだが、分厚い教本が押し付けられる。これだって、経費節減ならもう少し分量を減らせるのではないか、警察OBの天下り会社への仕事を回すためなのだろう。
 最後には、講習が約1時間あるのだが、歯の噛み合わせが拙いのか、声が篭って「音声」は聞こえるのだが、殆ど意味が判らない講師だったことだ。
 こんなことばかりやっていることこそ仕分けで徹底的に排除して欲しいと思った。

投稿者:つねちゃん
at 08 :38 | お役所 | コメント(0 )

2010 年4 月15 日

登校点検表

 孫が今年から小学校へ入学しました。
 今までの保育園だと多少の忘れ物などがあっても、ほぼ代替で何とかなっていたのですが、これからはそんな訳には行かず「自業自得」と言って見ても悲しい思いをするだけです。
 で、家内と娘で考えたのが、表題のものです。
 下の孫も「私も同じものが欲しい」と言うので、項目は少ないけれどこしらえました。
 実は、これは娘が生まれる時に、田舎へ帰る家内が社宅のあちらこちらの部屋中にに貼り出したものと似たような物です。
 でも、それまで単身生活などしたことが無かった私にとっては、ずいぶんと助かりました。
 家を出る時の「財布、定期、鞄」はいうに及ばず、当時は月曜日と水曜日には一般ゴミ、金曜日には不燃物を加えて出すことなど、当時はまだ布団だったので「仕事で遅くなるから仕方ないけれど、少なくとも1週間に一度は布団を干すこと」など、女性としてや家内としての行き届いた注意が認めてありました。
 最近は、先日の携帯紛失を含めてちょっとしたことが忘れがちです。
 孫に「ジィチャンはぁー」と言われないように、点検表を掲出することにしようと思いはじめました。
 さて、何からどのレベルまで書くかが、実は今から楽しみです。
 まさか、エロビデオの返却を忘れないようにとか、パチンコは程度を弁えて、とかは書けないし。
 そんな僅かなことが楽しみになっている自分が孫と似た様に、微笑ましく思えること自体が楽しみです。

投稿者:つねちゃん
at 12 :58 | 子育て | コメント(0 )

2010 年4 月14 日

愛煙家の孤独

 春の交通安全週間が始まり、当番で朝の出勤、登校時間に街頭指導に立った。
 そこで目にすることは、今までもこのブログや新聞へ投稿したのだが、今回気が付いたのは、以前の酷い状況ではなく、むしろ「哀れな」姿だった。
 前回は若いお母さん(だろうと思う)が、窓を閉め切って喫煙しながら子供を送ることで、副流煙被害など知ったこっちゃないというものだったが、幸いにして今回はそれを目にすることはなかった。
 その代わりと言う訳ではないが、自分独りで乗っている時には、「咥えタバコ運転」が結構目に付いた。
 送り終えた人もそうだが、明らかに通勤途上の人にも多く見かけた。
 この人たちは、たぶん家では「子供や私のために」と言われて換気扇の下やベランダなどでの蛍族だろうし、会社では「社内禁煙」という「迫害」ルールに追い出される始末なのだろう。
 暖かい日ならそれでも良かろうが、寒い日などはおちおち吸っても居られない状況だろう。
 そんな状況下で「独りになれて、誰からも後ろ指を指される心配がない」のは運転席なのだろう。
 もうタバコを止めて7年になるが、かつては片道約45分の自家用車通勤では、少なくとも3本は吸っていたろう。
 無線仲間との交信やそれが無い時には好きな演歌を少し大きめのボリュームで掛けながら、もちろん安全運転に気をつけながら、ゆっくりと紫煙を燻らせ、昨日までの出来事、今日の予定とそのための対策などを考えたものだった。
 それからすると、彼ら彼女らは一人での喫煙時間を愉しんでいるのかもしれないが、傍目から見ると「孤独の悲哀」を感じざるを得ない。
 余計なお世話かもしれないが、紫煙を燻らせる時間が人によっては、「健康タイム」なのかもしれないのだ。

投稿者:つねちゃん
at 14 :21 | 健康 | コメント(0 )

2010 年4 月13 日

再びの為の「杖対策」

「転ばぬ先の杖」とはよく言うのだが、実際には中々それが用心できない。
 先日携帯電話を紛失してしまった。
 在職中から続けていたのは、入出館用のIDカードとともに、首から提げておく長いストラップを付けて置いたものだが、リタイアしてからはIDカードは全く必要が無くなり、携帯もPIMとして役割のほうが重くなっていたので「気を付けてさえ居れば」と言う気持ちになり、長いストラップは散歩の時のDAPに譲ってしまった。
 結局「油断」だったのだろう。
 出かける時になって、携帯が無いので探し回ったのだが、残念ながら見つからない。
 お酒が入る会だったので「まぁ、良いか」と諦めて出掛けた。
 ところが、翌日になってどうしても人との約束時間が携帯だけにメモしておいたので、焦りまくり、前日畑をしていた時には間違いなく友人と電話していたのだから、その後3畝に腐葉土を耕運機で漉き込んだから、土の中にもぐりこんでいないか、終わってから佛花にでもしようと水仙を取り込んだから、その辺に落としていないか。
 そういえば、作業服は暑いからと脱ぎおいたところにも落ちていないか。
 ソウソウ、出かける時の資料印刷で用紙が足りなかったので車で買いに出たから、車の中やお店にないだろうか。
 散々探したが、見つからない。
 結局携帯会社へ連絡して不正利用防止のために停止してもらった。
 その後も散々探したが、結局諦めて警察へ電話する体たらくだった。
 幸いにして、よい方が警察へ届けていただいたので、無事に戻った。
 こんなことから「羹に懲りて膾を吹く」様なことだが、再び「転ばない」ためにも対策をしておかなければと、今更ながら「転ばぬ先の杖」の対策を講じている。

投稿者:つねちゃん
at 09 :01 | 日記 | コメント(0 )

2010 年4 月12 日

資格取得

 時々人から聞かれることに「PC関係の資格を持っていると仕事が来るもんけぇ」と言うのがある。
 即座に「そんな事はありません」と言うのも少し抵抗があるので、「どんな資格を目指しているのですか」と聞くことが大体の応答である。
 そんなことで初めて知ったのだが、「パソコン修理技術者」と言う資格があるのだそうである。
 私自身は、在職中に「ネットワーク技術者」と言う資格を取ったが、特別それによって昇給と言うことも手当てが付くこともなかった。
 暫く資格と言うものから遠ざかっていたので、調べてみると、あるわあるわ。
 でも、「資格取得のための講座」の紹介が結構あり、そういう講座を開いている団体は応募者が居ればそれなりに儲かるだろうが、資格を取ったからと言って「仕事が舞い込む」と言うことは、「絶対に無い」と言いたい。
 確かに持っているのと居ないのとでは、差はあるかもしれないが、それを「仕事の糧」とするということになれば、簡単なことではない。
 先にあげた「修理技術者」で仕事をするということになれば、資格を取ること自体は勉強すれば出来るだろうが、実際に修理すると言うことになれば、色々な測定器やソフト・ハードの幅広い意味での「ツール」が必要不可欠である。
 それには当然「投資」が必要だし、投資すれば、活用させて少なくとも「元を取る」必要があり、それを達成した後で「利益」が生まれるのである。
 そうなると、まずは「客探し」から始まらなければならず、そのために広告費用も掛かるだろう。
 また、当然競争相手もいるだろうから、それらとのしのぎも削らなければならない。
 そんな覚悟があるのなら、お勧めするが、私の知っている範囲では、残念ながら「仕事」にはならないと保障できる。
 資格取得のために学習して、知識を多く蓄えることは、大いにお勧めするし、資格取得というのは自分のレベル検定だと言う意味では有効だろう。
 しかしながら、仕事にしようとするのであれば、「自分が新たに作るルール」によるもの以外は投資するだけ無駄だろうと思って、聞かれた人には説明している。

投稿者:つねちゃん
at 10 :39 | 学習 | コメント(0 )

2010 年4 月9 日

児童の名前

 今日予定していたテーマを変更して、気持ちが新鮮な時にと、この日にした。
 孫の入学式で児童の名簿を読む機会を得た。
 「〜雄(夫、男など)」「〜子(代など)」の名前が殆ど無く、漢字を見ただけではとても読めない名前が多い。
 どうも一時期流行った「カタカナにしたら英語の特定の意味になる」というような乗りなのだろうか。
 実際、私の名前も「難読」の一つかも知れず、今まで一度として正確な文字を書かれた覚えがない。
 また、正確に呼ばれた思いも多分少ないと思う。
 さりとて、「英語で特定の意味」などとはまるで縁がない。
 音読みばかりで言うと「ジョージュ」となるのだろうが、そんな単語に出会ったこともない(もちろん調べてもいないのだが)。
 孫の名前で気をつけてもらったのは「書きやすい名前」だった。
 「薔薇」などの名前だったら、高校生になっても中々書いてもらえないだろう。
 児童の名前には幸いにして、横に平仮名表記されているので、殆どの場合「ヘぇー」と言う新鮮で愉しい思いがする。
 親や祖父母が考えながら付けたのだろうから、ぜひともその時の思いを小学校の高学年くらいには伝えて欲しいものである。
 英語でも通用する名前、と言う思いが少しでもあるのであれば、英語の勉強は自然とするだろうが、ぜひともそれと同様かそれ以上に「日本の勉強」もして欲しいと思う。
 外国へ行ってお互いに自国の文化を紹介する時に「知らない」では国際人としての常識が疑われると言うものだ。
 最近では、日本人以上に綺麗な日本語を使う外国人が現れると、時々聞くが、そこまでには成れなくても日本人が聴いて不思議な日本語に聞こえないくらいにはなって欲しいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :28 | 子育て | コメント(0 )

2010 年4 月8 日

死刑廃止と再審請求

 タイトルは些か厳しいのだが、ここではふざける訳ではないが、それなりに素朴な疑問と言うことで書かせていただくつもりである。
 最近になって、ずいぶん昔の事件が、当時の警察体制の不見識を初めとして、証拠が証拠になっていないことが証明されて、獄中からの再審請求が採用されている。
 確かに冤罪は見逃されるべきでないことは誰もが認めるところで、私だって諸手を挙げて賛成である。
 ここだけは、しっかりと誤解の無い様に言って置かないと、論理にならない。
 警察や検察に関するドラマでは「体面」を重んじるがために、冤罪を作り上げる筋書きのものが多いし、其処では「言いたいことが言えない」雰囲気が前面に流れている。
 じつは、半官半民だった会社組織に30年近くも勤務していて、それと似たようなことはしばしば経験した。
 今ではその会社組織も人が変わり、文化も変わったから、殆どのことは時効だろうから、少しばかり紹介することは問題ないだろう。
 兎も角「そんな事をしたら(言ったら)、上の人(過去のやったこと)を非難することになるだろう」という論理が最優先なのである。
 だから「従来どおり」やるのが常だったし、問題を起こさないことだった。
 
 話がそれたが、そんな警察・検察の体制もさることながらだが、死刑判決を受けて執行されないで長い間経った人がそれぞれに再審請求をしたらどうなるのだろうか。
 当時の証拠だとて確実だったろうか再び審査することに時間と金を掛けるのだろうか。
 もちろん、どこかの国のように短兵急に死刑執行をすべきだとは思わないが、さりとて「死刑」と言う判決がある以上(この在非の議論はまた別だろうが)慎重に慎重に判断した上で速やかに執行すべきだと思う。
 でないと、誰もが不服申請することになって、収拾が付かなくなってしまうのではないか。
 時の法務大臣はそれを十分承知した上で大臣になって欲しいと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 10 :38 | 日記 | コメント(0 )

2010 年4 月7 日

畑が愉しみ

 日当たりの悪い畑の雪もすっかり消えて、昨年植えつけた玉葱と大蒜が、そろそろ本格的に芽が伸びてきている。
 日当たりのよい畑のものと比べると、残念ながら相当成長が遅いようだが、なぁーに、トータルとしての日照時間が確保できればいいのだから、収穫が少し遅れるだけだろう。
 実を取るための梅の木にも多くは無いが、しっかりと花が咲いている。
 栗や林檎はまだまだだけど、枝が込み合わないような剪定だけは冬の間に済ませておいたので、林檎は初体験だけど、栗は昨年の20個以上は収穫できるのではないかと期待にワクワクである。
 目的外の草(下草)を出来るだけ手で摘み取った後で、耕運機の世話になったのだが、元々宅地で、建物を壊した時の廃材などが土深く埋まっているので、少し深く掘ると「ガリガリ」とタイルや基礎部分に使ってあったのだろうコンクリートの塊などが出てくるし、宅地としてはそれなりに効果があったのだろうが、基本的に粘土質の土なので、たっぷりの湿気を含んだ泥が耕運機の歯にべったりと付いてくる。
 粗お越しを一通りやって、数日の間に雨が降ってから見回ると、赤子の拳大の石が表に出てくる。
 それをできるだけ取り去ることを何度か繰り返して、漸く腐葉土などの土質改良剤などを漉き込んでから、畝作りと本格的な作業になる。
 これがこれまで何度も繰り返し、今年もそんな時期になってくるのだが、幸か不幸か孫の入学式の今日は午後から晴れては来るものの、農作業は休みにしよう。
 でも、これからの日中、桜を愛でながらラジオを聴きながら小石拾いもお金の掛からない愉しいひと時になる。
 もちろんその後には新鮮で安全な野菜の収穫がまっている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :43 | 園芸 | コメント(0 )

2010 年4 月6 日

落とし所

 タイトルを見られただけでは、ジャンルは「政治家への注文」と思われた方も居られるのではないだろうか。
 で、期待を外して「子育て」のジャンルにした。
 孫との対話の中で、時々「この子は落とし所をどのように考えているのだろうか」という疑問を持つことがある。
 明日が入学式の上の子も2歳下の子も「全く考えていない」訳ではなさそうで、二人の会話から口げんか、お互いに泣き出して、誰かが仲裁に入り、何とか仲直りから再び愉しい会話になるのが通例パターンなのだが、どこかでこの連鎖が崩れると、落とし所を探し回っている姿を時々見かける。
 2歳の違いだけど、矢張りそれだけ経験を積んだ上の子の方が先に折れる場合が大半だが、どうも下の子はそれを読んでいる様な気配もある。
 そうなると、私もそうだった様に「総領の甚六」的な場面になってしまい、微笑ましくも、下の子が憎たらしく思えることもある。
 これとは別に、先日身近なところで、「落とし所」を見極めなくてはならないような状況に遭遇した。
 上意下達の如く指図されたので、咄嗟に「それは出来ない」と満場の皆の前で断ったのが最初である。
 年齢的なもの、経験的なものなどから判断すれば、大体その線に落ち着くことは見えていたのだが、どうにも「上意下達」というものには抵抗したくなるのが一つの癖である。
 結果としては、それなりの所に収まったのだが、こちらの「読み筋どおり」だったので、結果良しと判断しての落とし所だった。
 さてさて、少しだけ政治的な面に触れると、普天間基地、拉致問題、誤認逮捕、自民党の分裂猿芝居などなど、皆何処に落とし所を見ているのだろうか。
 少なくとも、そろそろ国民はそんなことに騙されなくなっている事に気が付いた落としどころを見つけて欲しいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :44 | 子育て | コメント(0 )

2010 年4 月5 日

書き取りの効用

 「書き取り」ということを般若心経から初めて、徒然草は一通り完了し、現在は、継続している「三君の遺訓」、「暦」に加え、我が家の仏壇から出てきた大正時代の発刊物の「御文」にも手を染めている。
 朝起きてしばらくの間の時間を日課としてこれに当てているが、それなりに愉しい。
 先日の床張替え工事の時に少し休んだが、やっぱり「やるべきこと」になってしまっているようで、忘れ物をしたような気分だった。
 そんな事をしていると、多分気が付かないところでいくつもあるのだろうが、「略字」を使わなくなっていることに気が付いた。
 門構えの文字、言偏の文字、馬偏の文字などなど、今までは無意識に略文字を書いていたのだが、「写す」ことに重きを置いた所為で、もちろん原文にそんな文字は書かれておらず、正しく書くことになってしまっていた。
 そうなると面白いもので、なんでもない手書きの時にも、略字を使っていないことに気が付いたのである。
 それは、同級生に指摘されて気がついたことで、指摘された時に新たな発見をしたような愉しい気分になった。
 もちろんそれだから文字が綺麗になったなどは無く、人が読み上げることを書き写す時だったから、急ぐ必要もあり、相変わらず「ミミズがのたくったような」文字でしかなかったのだが。
 でも、それを意識すると「他の文字でも適当に略していないだろうか」と気をつけるようになっている自分がいた。
 どんなものでも、一度「書き写して」見ませんか。
 多分新しい発見が出来ると思いますよ。

投稿者:つねちゃん
at 09 :56 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年4 月2 日

目の運動

 幾つもの「健康法」と言うものを発見し、体験しては、飽きてしまって、気が付いてまたそれを繰り返している。
 今回のものもそうだが、先週から心掛けていることに表題のものがある。
 一日が幸せに始まるための一つのイベントに「新聞を微睡(まどろみ)ながら読む」と言うのがある。
 真剣に読むには「テーマを決めて」と言うのがあるが、あくまでも「微睡」が私の場合合っている。
 で、そんな酔眼朦朧とした気分中で、視線を新聞の中心部に合わせて目の玉だけを動かして右端から左端までの記事を読むのに挑戦することである。
 TVの番組でか何かの本だったかは忘れたが、それを知った時にやってみたら、少しは抵抗感があったものの、かろうじて字を認識することが出来たものだった。
 ところが、最近始めたところ、残念ながらとても両面の文字を認識することができなかった。
 で、またまた挑戦の開始である。
 どうもこれは「慣れ」も相当あるようだが、いろんなエクササイズにしても、結局はどこかの筋肉を慣れさせているわけだから、これとて運動にはなるだろう。
 諸姉・諸兄に置かれても一度試して見られてはどうだろうか。
 私の場合、これをやることで「春眠暁を覚えず」と言う気分が、調子よく解消され、元気な目覚めがまっている。
 なんでも探究心が旺盛な還暦過ぎだが、やってみた場合、とやらなかった場合を比較すると矢張りそれなりの効果があるような気がしている。
 まだまだ再開して間が無いので、色々試してみようと思いながら、徐々にではあるが視界が広がるのが愉しい。

投稿者:つねちゃん
at 09 :29 | 健康 | コメント(0 )

2010 年4 月1 日

部屋の模様替え

 部屋の床張り替えを契機に、机の配置を初めとして、それなりに模様替えをした。
 今までは、ベッドで横になって見る機会が多いからと言うので、TVは低めに配置していたのだが、最近の私の動向からすると、スローステップをしながら見る機会が多くなっているので、その高さまで揚げることにした。
 別に、そのための設備をするのではなく、今までの「オーディオセット」と言うのは、「ターンテーブル」が上にあるので、その上には一切物が置けないと言う既成観念から、最上段にしていたものと置き換えただけである。
 レコードはまだ多分100枚くらいはあり、ターンテーブル(プレーヤー)はあるのだが、音飛びが激しく、今のセットには接続していないから、下段でも一向に構わないのである。
 CDは3枚入るのだが、引き出し式になっているので、これも問題ない。
 TVとセットになっているCATV用のセットとこれと連動するカセットビデオデッキ(これももう相当古いのだが、かなりしっかりと動作しており、CM部分を飛ばして録画してくれる機能があるので捨てられない代物である)もTVのすぐ下の段に移動させた。
 最大の課題は、机の配置だった。
 私が「書斎の必需品」と在職中にかなり奮発して買った両袖の机は、矢張り中心物であり、これからも大切に使いたいのだが、出来ればそこではPC作業はしたくなかったのだが、今までは渾然一体となってしまっていた。
 で、友人から貰った木製の机にPC作業を集中させることにして、完全分離してしまった。(これが何時まで続くかは多分に疑問ではあるのだが)
 一つ、基本的に考え方を変えたのは「定位置」だった。
 近くにあれば、確かに便利なのだが、必要に応じて、定位置へ取りに行き、用済みになったらこまめに戻す。
 ウォーキングにはならないが、こまめに身体を動かすことが健康に悪いはずが無かろうから。

投稿者:つねちゃん
at 10 :03 | 日記 | コメント(0 )

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