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2010 年9 月30 日

交通安全週間 その2

 富山県人は一般的に「合図が遅い」という評判だが、確かに交差点に立っていると実感できる。
 右左折のウィンカーが交差点ぎりぎりになって点けるのが目に付いた。
 在職時「ヒヤリハットの防止」という活動があったが、まさに今回何度かそんな場面に遭遇した。
 幸いにして、事故にはならなかったが、原因の一つにはやはり「合図の遅出し」があったように思う。
 合図が出ていないのだから直進するのだと思った対向車が、突然右折しようとした車の寸前でけたたましい音を立てて急ブレーキを踏んだのだが、右折した車は(私の見た限りでは)全く意に介さないでそのまま通り過ぎてしまった。
 女性の年齢を見る目は私にはほとんど無いのだが、どう若く見ても40代は超えているだろう。
 また、交差点近くで通常の速度よりも相当遅く移動している車があり「どうするのかなぁ」と思っていると、後ろから来た車が追い越そうとしたのだろう、右横を通り過ぎようとした途端に、目的地が見つかったのだろうか速度を急に上げたので、危うく接触するかと思った。
 それならば、ハザードでも点けて一旦停めて置くとかの合図がやっぱり必要だったのではないだろうか。
 「人の振り見て、我が振り直せ」という言葉は、自戒のためにあるのだろうが、まさしく今度のことで反省させられた。
 尤も、かと言って、ウィンカーを点灯させても、小さな交差点に猛スピードで突っ込んでくる若い人には開いた口が塞がらないのは、ヒヤリハット以上の驚きと怒りがこみ上げてくる。

投稿者:つねちゃん
at 06 :47 | 交通安全 | コメント(0 )

2010 年9 月29 日

交通安全週間 その1

 秋の交通安全旬間ということで、例によって当番で街頭指導に当った。
 今回気になったのは、後部座席のスモークグラスである。
 先日このブログでも書かせていただいたが、減税欲しさに12年乗った車を新車にしたのだが、標準ではスモークは装備されておらず、気が着かなかっただけかもしれないが、例えオプションにあったとしても私は装備させなかっただろうと思う。
 スモークは本当に必要なのだろうか。
 雨模様の天気だったこともあり、主に中学生を送迎する車の殆どに装備されているのに驚いてしまった。
 外から見えない事が見区的なのだろうか。
 それとも今年の夏のような猛暑に対する措置としてエアコンの負荷を減少させ、結果としてはエコロジーが目的なのだろうか。
 その真意は測りかねるが、矢張り外から見て、いい気持ちのものではない。
 そんな中で多分エアコンを効かせた社内で親や爺婆に運転させた中学生が鷹揚な姿勢で乗っているのを垣間見ると、何ともやりきれない思いがしたのは私だけだろうか。
 別に「剥がすべき」等と主張する気は毛頭無いが、矢張りそれを装着していることを考えながら、外からの視線を気にして運転し、乗せている子女にはそれを言い聞かせておくべきではなかろうか。
 ここまで書いてきて気がついたが、書き写しを500回以上もやっている「般若心経」の精神から外れている事に。
 イヤイヤ、まだまだ門前の小僧にはなれそうも無い。
 そう思った夕方、娘が帰ってきてその車を見ると、しっかりとスモークが装備されていた。
 真意を問いただす気も消沈してしまった爺バカである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :28 | 交通安全 | コメント(0 )

2010 年9 月28 日

忘年会シーズン

 先日参加したある会合で「今年は何処にするかなぁ」と言う話題が出た。
 今年も残すところ3ヶ月となり、締めくくりという意味での忘年会の場所決めについてである。
 在職中に長い間「幹事」をやっていたので、この時期になっての話題ではとてもじゃないが遅すぎるのであるが、そんなにしょっちゅう会っている訳でもないのでどうしてもこんな時期になってしまう。
 相変わらず余談になるが、在職中の幹事については、研修所を卒業して最初の配属の時に、「何でも良いからくじを引け」と言われて引いた阿弥陀くじで幹事の一員になったのがきっかけだった。
 その年の忘年会は総勢70名を超す体制であった。
 幹事長はよく気が着く方で、あの人には日本酒は駄目、あの人は下戸だから、アルコールの無い飲み物を等ときめ細かい指示をしてくださる。
 若い私はただ従うだけだったが、当時はそこそこ記憶力も良かったので、その次の年の参考になった。
 また、10名弱の女性も居たので、そこは固めて「酌婦代わりにならないように」との配慮と宴も酣となった時に、当時は恒例のように呼んだのが「お座敷ストリップ」だったので、その時には私を含めて若い男性がしばらく別室で相手をさせられたものであった。
 時は移り、催し物も変わり、酌婦さんではなく、コンパニオンさんに代わったりしたが、基本はその時に仕込まれた事が部長職としてホスト役になったときにも十分に役立った。
 本題に戻して、同年輩ということで、そこそこ口も肥えたものの、その前に「飽きた」という事になり、風呂が広くて、部屋が綺麗で、昔ほど飲めないからできれば中より少し美味いお酒が適当にあれば言い、ということで落ち着いた。
 それにしても、この時期まだ探せば希望日に取れたのだが、これからだんだん窮屈になるだろう。
 今年は現在決まっているだけで3回だが、果たして何回になるだろうか、楽しみである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :55 | 健康 | コメント(0 )

2010 年9 月27 日

外交の難しさ

 余りこのブログに登場させたくない話題なのだが、今回の対中外交には、ごまめの歯軋りでしかないとしても、かなり腹立たしい思いがしたのは、多分私だけではないのではないか。
 最初の内は「国境侵犯なのだから、徹底した論戦を貼るべきだ」と検察の支持を思っていたのだが、スパイ容疑で何人かが囚われ、レアメタルの輸出禁止と言う対抗措置に腰砕けになって処分保留のまま釈放、と言う事態に至っては、「何をか言わんや」である。
 挙句に「謝罪、弁償しろ」とまで言われて、その責を政府に委ねるのでは、検察としての自主性は内部の問題があるとしても何とも納得しがたい。
 従来の北朝鮮との拉致問題に対する外交にしても、米国との「思いやり予算」や「基地問題」に関する外交にしても、結局は、相手国の強硬路線に負けてしまってるのではないだろうか。
 これに対して、従来の政権が現政権を非難しているが、今まで自分たちが営々と築いて来た事になんらの反省もしていないのは、結果として相手の路線を助長しているだけだと思えるのだが。
 ここはぜひとも「小異を捨てて大同に決すべし」ではないだろうか。
 安土桃山時代から、江戸時代の初期まで続いた戦国時代的な内紛などは、外交に際しては邪魔なだけではないか。
 そんな事をやっているからこそ、反体制側に色々な動きをされてしまうのではないか。
 ごまめの歯軋りでしかないことは、重々承知しているし、このブログの趣旨からも外れているのだが、時々は在職中のように「怒るべき時は怒る」と言うことを忘れないでおきたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :44 | 政治への注文 | コメント(0 )

2010 年9 月24 日

失言を恐れない

 先日友人との会話の中で、「歩きながら考える」という意味で、「兎も角しゃべる」事が大切だという話が出た。
 地方の工業高校卒の人間が、企業内研修機関を経たとは言うものの、本社機関で「エリート」と言われる人間たちと同等の行動をしないと、埋没してしまうと言う状況下では、「走りながら考える」事が最低条件だったように思い、極力その様にして来たつもりである。
 それが出来ずに、埋没して言った先輩や同僚を何人も見てきたから、尚更「負けるものか」と言う「ヤケクソ根性」が自然と身についたのかもしれない。
 そんな事をやっていると、時々人を怒らせることもあるが、「行動しながら考える」事がリタイアした今でも、癖になっているようで中々直らなさそうである。
 主任、課長、部長と言う立場でも、それなりに考えて発言したつもりでもそうだったから、失言も数多くあり、今考えても汗顔の至りと言う事がある。
 しかしながら、このこと自体は決して悪くなく、むしろ若い人には積極的にやって欲しいと思っている。
 これについて、色々な国の人に尋ねた質問で、どの言葉がどの国だったかは忘れたが、「歩いてから立ち止まって考える」「考えてから歩き始める」目的地(らしい所)まで行ってから考える」などがあるそうだが、最も悪いのは「考えて歩かない」と言うことだと記憶している。
 「君子危うきに近寄らず」との心情だろうが、かつてのエリートと言う人類の多くがそうだった。
 決して「虎口に入らねば虎児を得ず」というほどあえて危険を冒す必要までは言わないが、失言を恐れずに、走らずとも着実に歩むと言う考え方だけは持ち続けたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :37 | 日記 | コメント(0 )

2010 年9 月22 日

結構それなりの事はやっているのではないか

 般若心経の「書き写し」も先日500回を越えた。
 門前の小僧、の様に、少しばかり理解が出来ているように思えたりする。
 勿論研究すればするほど奥深いものだろうから、その真髄に触れることなど思いも寄らない。
 私のやっているのは、どうもその手の本によると「写経」では無いとの事である。
 本格的な「写経」をするに当っては、手や顔を洗い、綺麗な紙に静かに心をこめて磨った墨を筆で丁寧に書く事がどうも必須条件になっているようだ。
 折込チラシの裏にソロソロ壊れかけているプリンターを使って、原稿用紙を印刷して、寝ぼけ眼でボールペンを使って書き写しているのは、到底その足元にも及ばないと言うことのようである。
 それはそれとして、リタイア後「色即是空 空即是色」を少しばかり垣間見しているように「何も得ようとばかりしない」という考え方に少しずつ傾いている場合がある。
 また「不垢不浄」と言う言葉にも「人によっていろいろな見方があるものだ」と言うことで一概に決め付けることなど無くても良いのだと言う考え方も時々同調できる事がある。
 歎異抄と言うものの書き写しもやって終わったが、その後ずいぶん昔に買った「論語」の書き写しを始めている。
 ここでも、いろいろと思い当たる事があり、勿論孔子が言っているすべての事が出来ている訳では毛頭無いが、「学ぶ」ことや「忠孝」と言う意味のわずかな部分は反省を伴いながらだけど実行している部分がありそうだ。
 般若心経と論語と言ういずれも「先人の知恵」と言う事に少しでも触れている自分を第三者的に見いてる自分を思うと、何だか「不出来ながら良くなっているよな」と褒めてやりたくなる。
 そんな「能天気」な気分もたまには良いのではないか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :25 | 日記 | コメント(0 )

2010 年9 月21 日

疑問を膨らませて愉しむ

 落語に出てくる「なんでも知っている」と言いながら「薬缶や鮪の解説をする」ご隠居さんではなく、知らないことを愉しむような事が多くなっている。
 多分他人様から見れば「何だくだらない」と一笑に付されてしまう疑問だろうし、解決したからと言って具体的に何かの役に立つかと言われれば、殆どの場合それは無い。
 だから、「考える」だけの楽しみである。
 在職中に良くやった思考方法で、「くっつけてみろ、離してみろ」と言う過程で、疑問を解いてゆくのである。
 どちらにしたところで、少し考えると「何でだろう」と言うそれに関する新たな疑問が湧いてくる。
 悩むほどのことではないので、どんどん錯乱して行くのが愉しみだし、それを第三者的な目で見ている自分も愉しむ事が出来る。
 時々「自分の考えていることは、何処から発生したんだったろうか」と言うようなことにも遭遇するのだが、それを考えていくと「振り出しに戻る」的に思考の閉回路が出来ているのも楽しい。(どうも電気回路的になっているのも面白い)
 そんなことは時間の無駄だ、と言うお叱りもあろうが、なぁーに、リタイアした今、般若心経に影響された所為もあるかもしれないが、「焦らずに生きてゆこう、時間はたっぷりあるのだから」と言う考えに立てば、何の苦も無い。(うぅーん、般若心経の影響が色濃いなぁ)
 疑問を一つ思いつくと、今までの経験から「これはこうだ」と言う答えが出てしまい、バカボンのパパのように「これでいいのだ」と言う事になってしまうのが今までの常だが、これからはむしろ「これじゃ駄目かもしれない」と言う考え方に立って「それからどうした」風に疑問を膨らませて見てはどうだろうか。
 勿論、現役の人にこれはお勧めしない、早急に結露を出すべきだと言うのは論を待たない。

投稿者:つねちゃん
at 09 :27 | 学習 | コメント(0 )

2010 年9 月17 日

せめて一時メンテ位は

 最近似たような事に立て続けに出くわした。
 耕耘機のエンジンが掛からなくなったので、ずいぶん前だけど買った店へ行って相談すると、買った当時の人は転勤でいなくて、対応された人の言うことには「メーカーへ送って点検してもらわなければ、期間がどれくらい掛かるか、費用も判らない」と言う。
 その他にはなんらのアドバイスもないのである。
 正直なところ、エンジン関係については全くの素人なので、どうしてよいか判らないし、メーカーへ送っていたら冬野菜用の作業に間に合わなくなってしまうのが心配である。
 「もう元も取ったことだし、新規に購入しようか」と思っていた。
 幸いに近所の人に見てもらって、点火プラグの汚れと夏の暑さの所為で掛かり難くなっていたとの事で、無事に回復。
 もう一件は、長い間の趣味の世界での無線機の表示が出なくなっていたので、これは当然メーカー送りしかないと、専門店へ持ち込むと、単なる事務手続きで預かり伝票を発行してくれた。
 以前ならば、其処で電源を入れてみて、現象を確認して、他に気がつくところが無いか等と話しながらの対応だったと思っていたが、全く無しである。
 いずれにしても、せめて一時対応や一時メンテナンス、もしくは一般論でも良いからアドバイスなどがあって欲しいとおもうのは、無理な注文なのだろうか。
 正直どちらの店も適当な頻度で顔を出す店であるが、これから物を買うのにはこんな点にも気をつけて買いたいと思う。
 正直言えば、メンテナンス能力がない店では買うのを止め様とおもう。
 こんな事が続けば、結局地域の店では少し高額のものは売れなくなって、ますます疲弊化してしまうのではないだろうか。
 一消費者としては、悲しむべき事なのだろうか、それとも「他で買うから良いや」なのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :22 | 日記 | コメント(0 )

2010 年9 月16 日

読み方と書き方

 諸姉・諸兄は「十匹、女王」をどのように発音され、どのように振り仮名を付けられるだろうか。
 孫と夕食の時の話題になった。
 発端は今年小学生になった孫の「ねぇねぇ、「じっ」と言うのは「じゅう」のこことだよ」だった。
 最初は何のことか判らなかったのだが、長い間公文へアルバイトに行っている家内が同調したので、聞き耳を立てる事になった。
 (それ以外の話題の時には殆ど友達のことなのでも聞き流しているのが実情である)
 冒頭の事に付いて、私は躊躇せずに「じゅっぴき、じょう(お)う」と振り仮名をつけたろう。
 ところが、最近では先生によっては「?」になると言うので驚いた。
 最近は「じっぴき、じょおう」が正解だそうである。
 実はこれを書いていて、どちらでも上記の漢字が出現するので、そう厳密ではないようだし、孫の先生は「どちらでも良いけれど、今はこちらが正解です」と解説されたそうで、孫の発言になったようである。
 それで思い出したが、先月くらいから見出した番組で「日本人の知らない日本語」と言う番組がある。
 若い日本人女性が外国人に日本語を教える中で疑問が出てきて、色々な逸話を通じてその解説を行うと言うもので、結構見ていて楽しいし、学習にもなる。
 また、「みんなでニホンGO!」と言う番組も、興味深く見ているが、これも中々興味がそそられて学習している。
 今まで「そんなことは知っているよ」と言う事に対して「目から鱗」になる場合があり、楽しい衝撃を受ける事がある。
 いずれも10時とか深夜に(こちらでは)放送されるもので、難しいかもしれないが、私のように録画した上で見る事にして、一度ご覧になってみれば如何だろうか。

投稿者:つねちゃん
at 09 :06 | 学習 | コメント(0 )

2010 年9 月15 日

斜陽産業

 本当のところ果たしてそうなのか判らないが、言われると「そうかも知れないなぁ」という事がある。
 今回のテーマもそんな中の一つである。
 一時期は「何兆円産業」といわれてきたパチンコ業界もいまや斜陽産業になりつつあるという噂がネットで知らされた。
 つい先日、私も長い間趣味の一つだったパチンコをきっぱり辞めてしまった後だっただけに、「さもありなん」と思ったものである。
 思えば「立てばパチンコ」の時代から「開け開けチューリップ」、フィーバーが現れた時代は仕事に熱中していたので、暫く縁遠かったが、ストーリー物や歌手物が現れた頃からまたかなりはまってしまった。
 水戸黄門、大江戸捜査網、美空ひばり、天童よしみなどを愉しんだ。
 その中でも圧巻だったのは「冬のソナタ」と「必殺仕事人」だったろうか。
 二つとも一通り最後までやる事が出来たので、儲かってはいないが満足している。
 辞めた原因の大きなものは「刺激を感じなくなった」からである。
 同時にTVのパチンコ番組の予約も取り消してしまったから、もう始まることもあるまい、タバコを辞めた時と同じような気分で無理は無さそうである。
 斜陽産業かもしれないと思ったのは、ホールの状況である。
 従来の4パチ(1個が4円)のコーナーには新しい台が多く並んでいるのに、ガラーンとしていて、1パチ(最近は0.5パチというものにも出会った)などのコーナーには空き台を探さなければならないほど込んでいる。
 これでは勝っても負けても店の維持費などを考えると採算が合わなくなり、大規模チェーン店以外は消えてしまう状況が顕著である。
 そうなると競争相手が居なくなり、自然消滅という事になるのだろう。
 それはまだ良いのだが、その後の広大な敷地が「ゴーストタウン化」するのが哀しい。
 個人的にはまた新しい趣味を探すのが楽しみである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :23 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年9 月14 日

マンネリはつまらない

 事前に日々書き連ねていても、「何だ昨日と同じようなテーマじゃないか」と気がつくのは、やっぱり実際にこのボードに書き込む時点である。
 それにもめげずに、お目を汚させていただこう、なぁーに「ノホホン」なのだから余り気にかけることも無かろう。
 殆ど毎日というか、常に何か刺激を求めている自分に気づく事がある。
 これ自体は、まだまだ若いことの証拠か、と一人ほくそえんでいる。
 勿論他人に言えることばかりではなく、下半身に関することを含めて「口外無用」のことも数多くある。
 (またそちらに話が行くのか、というお叱りを気にしながら)
 それでも、「おっ、これは新しい刺激だなぁ」と気がつくとひとりニヤニヤして愉しむ事が出来る。
 諸姉・諸兄におかれても多少の差はあるかもしれないが、そんな事があるのではないだろうか。
 TVを見ていて気がつくこともあるし、散歩の途中で今まで見た事がないと思った花に気がつき、調べてみると以前に調べた形跡が残っていて、「あっ、なぁーんだ」としう刺激もまた楽しいではないか。
 杓子定規に「刺激」を定義する気もないし、健忘症と嘲笑われることも、別に構いはしないのだから、気楽でお金の掛からない愉しみ方である。
 大手ショッピングモールで、今までは全く入る気のしなかった店にも足を運んでみると、最初は「何だこの爺さん」という目が刺さるような気がするか、家内や娘や孫への買い物だと自分に言い聞かせば、全くといって良いほど気にならなく自然に振舞える、というのも「求めて得る刺激」である。
 マンネリという言葉は思考の堂々巡りしか招かないから、こんな方法でも刺激を求めて脳の退化の防止という楽しみ方もある。

投稿者:つねちゃん
at 08 :10 | 日記 | コメント(0 )

2010 年9 月13 日

出来ないから夢がある

 先日同じ年代の人と飲みながら話していたら、「もう夢なんて無いよ」という話題が出た。
 その時は「そうだ、そうだ」と一旦は同調したのだが、少し話しているうちに「イヤイヤ、やっぱりそんなことは無い」と反対意見を述べる事になった。
 これは何も私が特別だった訳ではなく、その話題の後に「そういえば地デジ対応のTVも買わなければならないし」ということで、「欲しいもの」が話題になったからである。
 また、「今更だけどあんな事もやって見たいなぁ」ということも出た。
 夢には「今出来ないけれど、できたらいいなぁ」というのも入るのではないだろうか。
 だとすれば「欲しいけど色々な事情で手に入らない」というのも入るのだろう。
 何も「竜馬ブーム」ではないけれど、天下国家を揺るがすほどの夢でなくてもこんな些細な事でも夢と思えば、毎日が夢満載であろう。
 「出来な(た)い」「欲しい」、「成りたい」etc etc 何でも「今そうじゃない」と言う事が夢と考えれば良いのではないか。
 そんなことを考えながら、思い出すと、在職中「理想解と現実」という議論を良くした。
 話題は主に、「生産性と品質」というのが中心だったのは仕様が無いが、思い描く理想と現実との乖離について、どのようにしてその溝を埋めのか、というものである。
 リタイアした今、そんな固いことを考えるのではなく、他人から見れば「何だそんな詰まらない事」になるかも知れないが、それでも良いのではないか。
 飲んだ席でのことゆえ、男女ともに「今更エッチなことなど考えたくも無い」というのも話題になったが、果たしてそうだろうか。
 福沢諭吉の母上の事を持ち出すまでも無く、凡人はそれ以上に「死ぬまで」男と女でありたいと思うのが本音ではなかろうか。
 これ以上続けるのトコトン迄落ちそうなので、これで止めて置こう。 (^。^)

投稿者:つねちゃん
at 08 :58 | 健康 | コメント(0 )

2010 年9 月10 日

重陽の節句

 暦の中で色々な縁起を担ぐのが好きだが、最も好きなのが最大の吉数とされる「九」が重なるこの節句である。
 ちなみに、他の節句も「余計なお世話」を承知しながらも紹介すると、
 一月七日 人日の節句
 三月三日 上巳の節句(雛祭り)
 五月五日 端午の節句(こどもの日)
 七月七日 七夕(しちせき)の節句  である。

 そして、この重陽の節句であるが、十一月はすでに一月を使っているので無いのだそうであり、九が最大の吉数である。
 尤もこれは中国からの言い伝えだから、日本では嫌われる数字なので、あくまでも「個人的」なゲン担ぎである。
 もう一つの呼び名(多分調べればキリが無いほど出てくるのだろうが)が「菊の節句」であり、菊酒を愉しむのが慣わしだとも聞いた事があり、かつて知ったかぶりをして日本酒に菊を浮かべて飲んだ事があるが、「玉杯に花受けて」というような桜ほど淡い匂いでなく、かなりきつい臭いだったので、それ以来やっていないのだが、菊の種類や量にも関係があるのだろうと思うと、いつの日か再挑戦してみたいものだと思う。
 結局風流よりも、牧水を気取る訳でもないが、「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」と結局私の場合は「酒」にたどり着くための言い訳でしかない。
 さればとて、間違いなく日本酒が美味しくなるのはこの時期からで、汗をたっぷりとかいた後のビール(元々好きではないのだが)よりも、チビリチビリとスルメなどの安いつまみで飲む日本酒が恋しくなる。
 ちなみに今日は、年に二度の中学同級生との懇親会である。
 多分、決して「静かに」とは行かないだろうが。

投稿者:つねちゃん
at 08 :19 | グルメ | コメント(0 )

2010 年9 月9 日

孫のスイッチ

 一ヶ月余りの夏休みで、それまでの学校生活の時間も基本的に全て家庭での生活時間となった頭の孫。
 小学生になったからという訳ではないだろうが、良い意味でも悪い意味でも「感受性が強くなった」様である。
 これを家内や娘と一緒に「ほらスイッチが入った」と笑いながら呼んでいる。
 ところが、一度入ったスイッチは、何を契機にオフになるのかが判らないから困ったものである。
 勿論殆どの場合に「入る契機」も判らないので、その原因を取り除くことも出来ない。
 ところが、意識するしないに関わらず暫くすると、大声で笑っている状態になったりする。
 赤ちゃんならば、よく言われるように「オムツだな」とか「お腹がすいたのだろう」とか幾つもの要因が育児書に書かれていたりする(これでも少しばかりそんなものに目を通した事があるのだ、少し自慢 (^。^))ので、片っ端からやって見るとどこかで「当たり」になる。
 ところがこの頃になると中々思い当たるものが見つからない。
 結局家内や娘と相談して「放任」する事に決めている。
 こうなると「爺」というものは勝手なもので、「完全放任」ならまだしも「いつまでも泣いていろ」と嗾けてしまう様になっている。
 少なくとも私の場合がそうである。
 これには両面の効果がある、一つは泣き声がエスカレートしてしまう場合、一つは「これ以上泣いても仕様がないか」と諦めて泣き止んでくれる場合である。
 家内や娘は、殆どやらない対応なので、爺がやると効果がある(場合がある)。

投稿者:つねちゃん
at 08 :11 | 子育て | コメント(0 )

2010 年9 月8 日

焼け石に水、に続く言葉は

 「思い」だったら嫌だなぁー。
 在職中はかなりの努力がそのように感じられたものである。
 何だか一人で頑張っている事が、空回りに思え、誰の目にも留まらず「ジュッ」という音もせずに消え去ってしまうような気がしたものだ。
 正直「もう辞めようか」とも思ったりしたのだが、幸か不幸か部下を持つ身だったので、それも出来ず、表面的にはそれなりの態度をしていたように思う。
 でも、これが「匂い」だったらどうだろうか。
 猛暑、酷暑の今年は矢鱈そんな匂いに出くわしたが、必ずしも「臭い」ばかりではなかったような気がする。
 朝晩畑や鉢物に水遣りをするのだが、その都度カラカラに乾いていたので、これでは折角の植物も枯れても仕様が無いか、位に思っていた。
 とは言うものの、折角やってきたのだから精一杯水遣りをするのだが、そんな時に匂うのがこの匂いだった。
 最初は気にも留めなかったのだが、段々それが土からの感謝の匂いではないかと、例によって極楽トンボのような感覚を持つのだが、それはそれで楽しいと自然に思われるようになっている自分が楽しい。
 確かに水分不足で十分に成長しなかったものもあるが、胡瓜、茄子、ピーマン、トマト、オクラ等は大変な豊作だった。
 表題の言葉は「無駄なこと」の象徴だろうが、後に続く言葉を少し変えれば、案外そうでもないように思う。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
at 10 :06 | 園芸 | コメント(0 )

2010 年9 月7 日

宝くじの期待

 先月、先々月と書き写しをしている暦に寄れば、滅多に無い金運に恵まれるとなっていたので、既に買ってしまっていた宝くじに大いに期待していた。
 結果は、物の見事に外れだが、その期待している間は「あれもしようか」「これもしようか」という「夢見心地」で随分と楽しい思いをしていた。
 前にも書いたような気がするが、3億円以上当たった場合の私の夢は決まっているのである。
 石動城の建設である。
 再建ではなく、新築で行きたい。
 天守には出来るだけの望遠鏡を設置し、子供に天体に対する夢と畏怖を感じてもらいたい。
 屋上にはHAM用のアンテナを設置し、世界中の仲間と交信し、たくさんの言葉を覚えてもらって、海外との友好の手がかりにして欲しいものである。
 中層階には、江戸期あたりから現代までが理解できるようなものを設置して、いかに自分たちが存在しているかを認識して欲しい。
 残念ながら、ここには話題を呼んでいる「縄文」という時代を想定はしていない。判らない事が多すぎるからである。
 また、万全な火災対策(以前に聖天堂の火災という事があったので)を施した上で「山菜料理」が自分で作れて、味わえるような施設が欲しい。
 城山で自分で摂ったものを自分で味わうことで、自然に対する畏怖と感謝の念を育んでもらいたいものである。
 諸姉・諸兄におかれては、「もしも」「万が一」「千載一遇にして」大きな懸賞金が当たったら、どのようにされるだろうか。
 そんなことを夢見て楽しみながらの3000円なら決して無駄遣いではないと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 08 :11 | 日記 | コメント(0 )

2010 年9 月6 日

「なたもだ」の効用

 最近興味深く見ている番組の、教育TVでやっている「テストの花道」で覚えたことだが、文章(ここでは論文)を書く一つの方法論だと言うことで紹介されたが、何も論文に限ったことではないと思い、座右のひとつに加えた。
 まず、結論を述べた後で、
 な:なぜなら
 た:たとえば
 も:もしも
 だ:だから
 という、論理構成である。

 私のこのブログなどは「気ままに」が趣旨なので、殆ど頓着しないし、今後もそうしようと思っている。
 技術現場人間だった頃には、改めて文章を書くような事がなかったし、それで良いと思っていたのだが「係長」と言う職に就いた時にはその点を徹底的に仕込まれた。
 その時には当然のことながら「起承転結」を明確に、と言うものだった。
 それから暫くして、色々なプレゼンを行い、上司やお客様に「納得してもらう」と言う資料作りが主だったので、改めて「文章」と言うことは余りなかった(趣旨が通れば、パターンに沿って穴埋め的に作れば良かったから)。
 そんな私が、今更ながら文章の書き方を「座右」にすること自体意味を持たないようなものだが、「学ぶ楽しさ」と言うことで、これに限らず色々なものを「座右」に加えて愉しんでいる。
 勿論元々ズボラで徒然なのだから、すぐに忘れてしまう事が多いのだが、そんなものを時々思い出して眺めてみるのもお金の掛からない愉しみである。

投稿者:つねちゃん
at 10 :11 | 学習 | コメント(0 )

2010 年9 月3 日

お酒の自動販売機に驚き

 個人的には余りビールというものは飲まないのだが、この暑い最中の日中に物理的作業を伴う行動をした後は、やっぱりビールか飲みたくなる。
 本格的に暑くなる前だったのだが、家内とその作業を終えて帰る途中にビールが飲みたくなり、今まで同様に家内に自動販売機で買ってくるように頼んだのだが「私では買えない」と言って戻ってきた。
 で、冷房の効いた車を降りていくと、なんと昔の自動販売機とは打って変わった姿である。
 タバコの自動販売機と一緒になっているので、なおさらそうなのかも知れないが、タバコもやめて足掛け8年になるから、自動販売機に接することはなかった。
 まず、免許証を求められる。
 この時点で家内は「買えない」事になってしまう。
 それを入れてから、顔での認証を行うようである。
 そんなことを慣れないながらやっていて、それでも漸くどうにか目的のビールが買えた。
 それだけの装置が置いてあるからか、お店には殆ど人が居ないので、操作方法を聞く訳にも行かなかったと言うのが、家内の「買えない」理由の一つだったようである。
 わずか310円の缶ビールを買うのに大変なことだったが、一つの「未知との遭遇」を経験して、帰宅後冷房を効かせた部屋で家内と笑いながら喉越しのビールの味を愉しむ事が出来た。
 それにしても、今後この自販機を利用する場合は、タバコは止めたけれどタスポカードを準備しておいたほうが良いのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 09 :02 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年9 月2 日

自家製ふりかけの世代交代

 昨年末に作成したふりかけが底を尽いたので、少し工夫をして新世代のものを造った。
 レシピ(というほどのものではないが)次の通りである。
 旧ふりかけ(2009.12.01作成) 
 乾燥ワカメ 100g、乾燥大蒜 100g、乾燥小海老 60g
 一味唐辛子 100g、炒り白ゴマ  65g
 自家製ハバネロを粉末に加工したもの 

 新ふりかけ(2010.07.11作成)
 乾燥ワカメ 100g、乾燥小海老 50g、乾燥大蒜  100g
 一味唐辛子 100g、ウコン粉末 1ビン、粉末煮干  65g
 炒り白ゴマ 90g

 諸姉・諸兄はこれをご覧になって如何な感想をお持ちになるだろうか。
 ハバネロを使っていないのは、今回の唐辛子が前回のものよりも辛味が強かったので、必要ないと判断した。
 ご覧になっていただければ判るだろうが「塩分」は素材に入っている以外は使っていないので、血圧は低空飛行で安定である。尤も薬を服用はしているのだが。

 次回にはうまく行けば、現在栽培中のウコンも使えるだろうし、次々回になるかもしれないが、塩分が少し気になるけれども自家製梅を使ったものが入るだろうとまたの愉しみがある。
 いずれにせよ、人様に差し上げられるものではなく、自分だけのグルメと健康粉末である。

投稿者:つねちゃん
at 09 :27 | グルメ | コメント(0 )

2010 年9 月1 日

男性も日傘の利用を

 「言うまいと思えど今日の暑さかな」で、夏休みが明けてもまだまだ熱帯夜や猛暑日が続く予報である。
 そんな訳で、どうしても外出は車に頼ってしまうのだが、それでも近くへは徒歩で出かける事になる。
 先日「所により雨」という予報だったので、邪魔だとは思いながらも雨傘を持参して出かけた。
 結果としては、幸いにして雨には降られなかったのだが、あまりの日差しの強さに傘をさして数百メートルを歩く事になったのだが、何とも快適である。
 現職の時には、なるべくコンパクトなようにと3段折り畳み傘を持参したが、リタイアした現在は「実用本位」だから、使うのは大きな傘である。
 日差しが避けられると、僅かな風が汗を吸ってくれるので、放射熱が奪われて正直「涼しい」のである。
 湿度も、たぶん家の中にいる時よりも低くなるのではないだろうか。
 従来「日傘」というものは女性の特権であるかのように思っていたが、男性も大型だけど軽量なもので日傘を使ってみてはどうだろうか。
 そんな物をこそ作って欲しいと思うのはわがままだろうか。

 それにしても、真夏日が続き、雨もゲリラ豪雨というような降り方は、従来の「温帯」感覚の身にはかなり辛く、年齢ばかりでは無く厳しい。
 昔聞いた「スコール」とでもいうような雨であり、少しでもエコに寄与したいと思うばかりである。

投稿者:つねちゃん
at 10 :54 | 健康 | コメント(0 )

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