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2010 年7 月30 日

本当に「欲しい」物がない 採用された

 毎週分厚い家電製品のチラシが舞い込んで、それなりに楽しくペーパーショッピングを楽しんでいる。
 ところが「これが欲しい」と言うようなものには中々出会わない。
 確かに「あると便利」と言う商品ばかりが並んでいるのだが、購買欲を呼び起こすまでにはならないのは、何故なのだろうと考えてみた。
 ラジオ番組は結構良く聴くほうだと思っているが、ビデオのような予約録音機能が豊富に無い。
 コンパクトにする必要からだろうが、無骨な指では細かいツマミやスイッチなどが操作し難い。
 3文字の英文字には大分慣れたとは言え、新しい機能を表現するのに相変わらず意味不明の英文字が並んでいるのでは、矢張り手が出なくなってしまう。
 多分、技術的にはそんなに難しい事ではないのだろうから、もっと消費者側に立った物を作って欲しいと願うのは私だけではなかろう。
 購買意欲が沸かない物を如何に安くしてもらっても、見るだけショッピングで終わってしまう。

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投稿者:つねちゃん
at 08 :08 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年7 月29 日

維持の必要性 ボツネタ

 久しぶりの晴天に誘われて、散歩に出掛けた。
 比較的新しくできた道には、十分な広さの歩道が設置されているのだが、残念ながら殆どの歩道が除雪されていない。
 歩いた形跡も殆ど見られないのだから、多分私のような散歩者とは違って日常歩かれる人は、車道を車に注意しながら歩かれているのだろうが、果たしてそれが正しいことなのだろうか。
 結局私も車道を通ったのだが、シャーベット状になった雪を車が通るたびにハラハラしながらだった。
 幸いに車の人はスピードを落としてくださったので、撥ねを受けることは無かったものの、折角地域の人々がが要望して作った歩道なのだから「維持」と言う観点で地域の人々が除雪してみてはどうだろうか。
 今後何を作るにしても「維持」と言う観点を考えなければ「仏作って魂入れず」の無用の長物にならないだろうか。
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投稿者:つねちゃん
at 12 :28 | お役所 | コメント(0 )

2010 年7 月27 日

一票の格差 ボツネタ

 「1票の差」が「違憲」だとされたが、どうにも合点がいかない。
 選挙権がある人が全員投票して、棄権率が0だとしても、25%の投票率でも選挙権者が4倍の地域と比べられるのだろうか。
 勿論極論だが、表の重さが1:4ということはそんな風に単純化して考えてみれば、判り易いのではないか。
 これを違憲だとして法律が改正されることにでもなれば、単に人口の多い都市や地域だけが恩恵を受け、地域の疲弊化に拍車を掛けることになるのではないか。
 その挙句は現在の中国に見られる「一部特権階級」と「貧民窟」を作り上げることにならないだろうか。
 人口の減少化が止まらない地域に住む我々にとっても決して他山の石ではなく、真剣に見つめ続けなければならない課題だと思っている。
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投稿者:つねちゃん
at 10 :49 | 政治への注文 | コメント(0 )

2010 年7 月26 日

高校無償化  ボツネタ

 高校無償化が通りそうだが、それならそれで高校を義務教育化するのが先では無いだろうか。
 団塊の世代の私たちの仲間には何人も「中卒」の学歴の人がいる。
 かつての総理大臣を揚げるまでも無いが、それでも頑張っている人は数え切れない。
 単に授業料だけを無償化することに将来的に何が得られるのだろうか。
 これを単なる「票集め」の道具と認めれば、そのうちに「大学の無償化」に繋がり、教育自体の瓦解につながるのではないかと思うのは私だけではないと思うのだが。

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投稿者:つねちゃん
at 15 :40 | 子育て | コメント(0 )

2010 年7 月23 日

今年の夏は「プール通い」になりそうだ

 明日から小学生になって初めての「夏休み」になる孫と一緒に少し早めにこのブログも夏休みをいただきます。
 下の孫はまだ保育園なので、夏休みはありません。
 その間は、以前やったように採用された、されなかったを問わずに新聞への投書でつながせていただきます。
 果たして夏休み一杯持つかどうかは計算していません。
 皆さんもどうか楽しく安全な夏休みをご満喫ください。

 と言う訳で、一学期(楽期)最後のオリジナルブログの最後です。
 上記のように孫が夏休みになり、予定表には平日毎日の「プールで頑張ろう」につき合わさせられそうです。
 今までは、一番暑い時間帯の2時頃から約2時間弱を勝手気ままにプールで涼を取っていたのですが、今年はどうもそんな訳には行かないようです。
 一応PTAと学校からの監視員がいるのですが、まさか任せっ放しにして行く訳にもならないだろうし、ましてや、「爺ちゃん、見て見て」と言うことで。少しでも成果が出ると、見て欲しくてたまらない様ですぐに呼びに来るのですから、無碍にも出来ないでしょう。
 そんな訳で、準監視員と言う立場での付き添いになるわけで、何処まで自分としての避暑としての涼が得られるか判りません。 
 とは言うものの、本音は矢張り「嬉しい」のです。
 夏休みの間に、認定検査があるようで、帽子に星が増えれば、それまでの子供プールから25mのプールで泳げるようになるそうです。
 それをニコニコしながら見ている自分を俯瞰している自分が感じられる様で、出来る前から嬉しさで顔が綻びます。
 まだ私がプールで「ウォーキング」できる間に50mプールで一緒に泳ぐ事が出来るのを今から楽しみにしています。

投稿者:つねちゃん
at 14 :14 | 健康 | コメント(2 )

2010 年7 月22 日

時には「予定」を変えてみる

 「下手の横好き」と言う訳ではないが、「これも良いね」と言う調子でルーチン化してきたイベントが結構多くなってきている。
 最近加えたのが、健康雑誌に影響されて「朝一番の水飲み(体重10Kg当たり1合と言う凄い物)」だが、これは三日坊主にならないうちに終わりそうである。
 ベッドに横になりながら読む新聞も「目を凝らして余り目玉を動かさずに」と言うのもイベントなら、起きる前に腕を伸ばして握る開くを10回も。
 起きてからも結構大変である、自動(これは自らが動くと言う意味)ばかりでなく、受動的なものもある。
 そんな中で、幾つかの「ルーチン化されているイベント」を先日「故意に」止めてみた。
 時間的に、そんなに節約になる訳ではないと思っていたのだが、結果は驚くばかりだった。
 実際にそれを「やる」時間は計った訳ではないが多分数分でしかないのだろうが、やるまでの準備と言うものが結構あるのではないだろうか。
 決して、物を用意するとかという物理的なものではなく、後になって気がついたのだが、多分「精神的な準備」ということではないだろうか。
 数分の「作ったブランク」は自分ではものすごく長い時間が与えられたような気がして、朝から気分が頗(すこぶ)る良くなった。
 これは「忘れてやらなかった」のではなく、あくまでも「故意にやらなかった」から生まれるもので、決してこれが「習い性」になっては困るのだが、時々「手を抜く」と言うことも、精神的には悪くはない影響として現れるのではないだろうか。
 ルーチン作業を洗い出してみて、そのうち余り影響が出ないもの(これは季節によっても変わってくると思うが)を「故意に」省いて省いた以上の心の弛緩を愉しんでみてはどうだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 09 :00 | 健康 | コメント(0 )

2010 年7 月21 日

今日は新品の一日

 我が家の日めくりカレンダー、と言うより箴言集だろうが、にある言葉であるが、非常に好きな一つである。
 毎日が「しんぴん」だとおもえば、何も無くても楽しい気がするではないか。
 長男だったから、弟ほど「お下がり」を身につれたりすることは無かったものの、当時はまだまだ「勿体無い精神」が頑丈(この言葉自体余り使われなくなっているようで、何とも寂しい感じがするのだが、心が頑丈なことは何時までももち続けたいと思っている)だったから、近所中で「不用品交換」の如く「使いまわし」が行われており、結構「お下がり品」を使わされたものである。
 だから、何かの機会に「しんぴん」と言う言葉が使われると、それがどんなものであれ、それだけで嬉しかった記憶がいまだに生々しく思い出される。
 それが、このことばでは「毎日」「しんぴん」に出会えるのであるから、昨日多少の嫌な事があっても、今日は真新しいしんぴんの一ページが始まるのだから、昨日までのことはさっぱりと忘れてしまっていいのだ。
 勿論、現実的には、それが今日だけでなくずっと続くこともあるだろうから、簡単だとは言えないのだが、せめて気持ちだけはこうありたいものである。
 それが昨日少しでも良い事があったとしたら、今日はより一層輝くしんぴんに出会える事になるだろう。
 そう思うと、毎日が楽しくなるだろう。

 今日から交通安全週間が始まり、そろそろ街頭指導に出かけるが、これもまたしんぴんの行動である。
 タイトルでは漢字で書いたが、矢張り言葉はひらがなのほうが心に届くような気がして、本文中は全てひらがなにした。

投稿者:つねちゃん
at 06 :45 | 健康 | コメント(0 )

2010 年7 月20 日

人に問うよりまず己に問え

 新聞投書に同年輩の人が「最近の若い人は」と言うようなことを嘆いておられる。
 私も最初の投書は多分そんな趣旨であったように思う。
 太古の昔に書かれた遺跡にも、同様な言葉があるというから、これは古代から変わらないものらしい。
 でも、最近は殆どその種の投書はしないようにしている(つもりである)。
 それは、表題の通り「その若い人を育てたのは自分たちではないのか」と言う事に気が付いたからである。
 嘆く対象のことを自分の子供は決してやっていないだろうか、と思うと、冷や汗三斗の思いである。
 自分は常に正しい、と言える人がいたらその人は多分同様に「私は嘘をつかない」と言うのだろうか。
 そんな風に考えると、どうも「冷や汗三斗」くらいではなく、最近少しばかり凝っている(こんな言い方自体が不謹慎なのかもしれないのだが)仏教の言葉の「十悪・五逆の罪人」に近くなるのではなかろうか。
 何もそこまで大袈裟に考えなくてもいいのだろうが、殆どの場合「自分のことは棚に上げて」と言う風に人を非難する事が多い。
 こう書いている自分自身も、どうもそうである。
 でも、言い訳にしかならないけれど、こんな事に気がつくこと自体が良いのではないかとも思っている。
 それに気がつかないで、投書して満悦しているようにはなりたくないものである。
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投稿者:つねちゃん
at 09 :21 | 子育て | コメント(0 )

2010 年7 月16 日

 「自分はこう見る」のだが

 在職中は、色々な議論をする時に「この意見に従え」という雰囲気を漂わせていた。
 それだけ自分の意見に固執していたし、それが曲げられるということはすなわち「負け」を意味すると思っていた。
 勿論確かに多くの負けを経験したが、ディベートは「勝って当たり前」という気持ちだった。
 相変わらず余談になるが、ディベートで「勝たなくても惨敗をしないコツ」と言うものがある。
 簡単なことなのだが、案外出来ていないので、そんな相手であれば、かなりこちらの有利に持ち込める。
 何も難しいことは無い。
 相手が主張している時に話し手の顔(主に眼)をしっかりと見つめ、納得できる(勝負の争点でないところ)にははっきりと頷く事である。
 決して、相手の論理に対抗できる論理を自分の資料中から探すなどをしないことである。
 で、話を元に戻して、リタイア後は、表題のように「貴方はこう言うが、それはそれとして」というのを前につけるようにしている。
 と言うのは、矢張り「勝負」の世界から身を引いているというか、勝敗にこだわらなくても良くなったと言う負担からの解放の所為だろうか。
 でも、相手の意見を一通り反論せずに聞いてから、表題の言葉で自分の意見を言い出すと、最初の内は相手も話の腰を折るような態度を示すかもしれないが、そのうちにしっかりとこちらの主張も聞いてくれるようになる。
 自分が参加している色々な団体で、このような議論があると、何故か私に発言を求められるのもこんな癖が皆に知られるようになっているからではないだろうか。
 そこには決して「勝負」と言う感覚は無く「何とか良くして行こう」と言う雰囲気が醸し出される、と思っている。
 政治の世界もこうなって欲しいと思うのは、乾物屋で刺身を望むようなものだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :44 | 日記 | コメント(0 )

2010 年7 月15 日

知っていることを「実行する」

 ガキの頃から「工作」と言うものが下手だった。
 だから嫌いだったし、の悪循環を繰り返してきたものだった。
 逸話は幾つもあるが、高校時代に「木工一般」と言う課目があり、厚さ5cmほどの板を鉋で水平に削れ、と言う時に、及第となった時の厚さは1cmにも満たないものだったことだろう。
 そんな癖が全く直っていない私が、先日「ツッパリ棚」というものを付けたのだが、その時に気が点いたのはそれなりの道具を使うことだった。
 まず取り付ける水平位置を、メジャーで正確に測り、鉛筆でしっかりとマークした。
 例によって余談になるが、「定規」と「物差」の違いが先日あるクイズ番組で紹介されていて、目から鱗の思いがした。
 それによると「定規」は定点間の線を引く道具で、「物差」はその間を測る道具だと言うことだそうだ。
 今回は巻き取り式のメジャーを使ったが、「正確に」と言うことを肝に銘じていたので、測る高さもお互いに測った上でのマーキングだった。
 そうして取り付けたのだが、最後の仕上げで使ったものがあった。
 多分何処の家にでもあると思うが、大工道具の中に「水準器」というものが入っていないだろうか。
 私のものは何かの展示会に行った時に貰ったプラスチックのものだが、矢張り思ったとおり水平、垂直に少しずつずれがあった。
 今までは「よしっ、出来た」と言うことで、そこまでせずに家族弐開放していたのだが、しばらく経ってから大概「お父さん、チョットかたがっとらんけ(富山弁)」と言う苦情が出て、とりあえず直すのだが、測定などはしなかった
 ことほど左様に、「持っているけど使わない」とか「知っているけどやってない」事がなんと多いことか。
 これに気がついたから、相変わらず「できる範囲で」と言うことだが、「まず実行」に手がけてみたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :11 | 学習 | コメント(0 )

2010 年7 月14 日

毎日が充実

 満足する、ということにもそれなりのパワーが必要なのではないかと最近思った。
 人様から「つまらない事」と言われるかもしれないが、最近なぜか夜寝る前には「充実して満足できた一日だったなぁ」と思える事が多い。
 勿論楽しく愉快なことばかりではないが。
 一頃から比べると格段と行く機会が少なくなったが、パチンコで大負けした時も、確かに店を出るときには「チクショウ!」と思うこともある。
 しかしながら、昔から「健忘症」の癖が直らずに、寝る時には「そういえばあんな演出は初めて見たなぁ」と言う感情に変わって、楽しかった記憶に摩り替わってしまうので、寝る時にはそれなりに充実していると思えるのである。
 だからという訳であるのか無いのか本人にも判らないが、満足してしまって、日記を書く気持ちらならずに、最近日記のつけ忘れが頻発している。
 で、時々「そういえばこんな楽しい事があったのは何時何時だったよなぁ」と思い出しながら、遡って日記に書き留めておくようなズボラな事になってしまった。
 でも、それすらも「充実していたなぁ」と思えるのは、一面からすれば「ボケの始まり」なのかも知れないと、少し反省したりそれすらをも愉しんだりしている。
 在職中を初めとして、我々団塊の世代はどこへ行っても「狭き門」ばかりを潜り抜ける必要があったし、それが習い性になって「負けるものか」と頑張ってきたような気がする。
 でも、それなりに今はあるのかどうか知らないが、「歌声喫茶」で大きな濁声を上げてロシア民謡などを歌って陽気に発散していたことを思うと、案外まだまだ余裕があったのかもしれない。
 それを今に置き換えれば、少なくとも「他人を追い抜く」必要が無い分、充実感が増しているのだと思えば、ボケの始まりだろうが何だろうが、本人としては十分に満足である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :52 | 日記 | コメント(0 )

2010 年7 月13 日

燃費の推移

 12年間使ってきた車を減税や補助金のあるうちに、13年までには少し足りないけれど新車にする事にした。
 この件については、前の時もそうだったのだが「まだもう少しは乗れるよ」と言う私に対して、大蔵省のお達しである事が多く、今回もそうであった。
 で、次期の車は燃費も大分改善されている(残念ながら納車時期の関係でハイブリッド車は断念した)そうだから、現在の車について過去約6年余りの月別燃費を調べてみた。
 その前の6年間のデータはどこかにあるのだろうが、残念ながら見つからない。
 当然経年劣化で緩やかに下がっていると想定していたのだが、この6年間殆ど変わらない事にびっくりした。
 高速利用で長崎まで行ったり、東北旅行を愉しんだりして瞬間燃費はかなり良い時があったとしても、均してみるとそんなに変わっていない。
 Excelで幾つかの近似線を描いてみても、傾向としてそんなに変わらない。
 これは矢張り嬉しい事だと思うとともに、そんなに意識していないながらも、交通安全の街頭指導を初めとしてホンの一端で寄与していることから、小さな事でも「身に沁みて」来ているのだろう。
 減速の時には、いきなりブレーキを踏むのではなく、シフトダウンしてしっかりとエンジンブレーキを掛けて、停車位置でブレーキを踏む。
 高速利用で速度を上げる時でも、導入区間で回転計を見ながら、徐々に上げて行けば、合流地点でちゃんと80Km/hくらいまでには上がるから、空ブカシのようなことをする必要も無い。
 走行中でも、よほどの事がない限り100Km/hを越すことは殆ど無くなった。
 決して、利口ぶったことを言うつもりは無いが、矢張り結局「安全運転」は燃費と言う点でもお財布に安全と言う事になるのだろう。
 世の中には「もっと燃費を良くする」と言う方法が開陳されているが、私としては「自分が無理せず出来る」と言う範囲を逸脱する気は全く無い。
 そのほうが「身にあった安全」と言う事になると信じている。

投稿者:つねちゃん
at 09 :05 | 交通安全 | コメント(0 )

2010 年7 月12 日

当たり前だが、実にすごい

 ビデオカセットの修理が終わって再利用を始めたのだが、何年ぶりかの初期設定に戸惑ったと同時に、改めて「凄い事をやっているのだなぁ」と思った。
 コンピュータシステムの設計建設から維持までの一連の経験を30数年間やってきたが、それなりに細かいところまでを検討して、設計をしてきたと思っていたが、果たして今回のVTRの機能設計ほど「痒いところに手が届いていただろうか」と今更ながら汗顔の至りである。
 決して言い逃れをする気は無いが、私の殆どの経験では、アプリケーションではなく、基盤や制御の部分だったので、人に説明しても容易に理解は得られない部分だった。
 それはさておき、NTRばかりではなく、いろんな身近な家電製品の機能を改めて考えてみると、「凄い、楽しい」がより身近に実感できるのではなかろうか。
 初期の頃のVTRでは当然予約のために時間合わせをするのだが、それが一度設定するとその後は主にNHKの教育放送の時報で自動補正するものである。
 また、番組が何かの都合で時間がずれたりすると、それをキッチリと追随してくれるのが最近の機能で、昔は「エッ、そんなこと聞いてないよー」とどこかのコメディのような失敗を何度も経験した。
 また、テープの残量が予定よりも少ないと判断すると、自動的に標準から3倍モードにしてくれる。
 このように挙げ連ねれば枚挙に暇が無いくらいなのだが、それに加えて最近BD(BlueDisc)を装備した録画器を使うようになったのだが、もっと凄い機能が内在されており、まだまだ十分に使いこなせていないので、これからが楽しみだ。
 このほかに、冷蔵庫の氷製造機能、炊飯器の米の状況に合わせた機能など等、気をつけてみれば本当に楽しくなるのは多分私だけではあるまい。
 もっとも「そんなことは当たり前」と言うことなら、それは好んで「知る楽しみを放棄」している御仁だろうから、それはそれで良いのだろうし、「そんな機能なんかは要らない」という御仁も否定する訳では決して無い。

投稿者:つねちゃん
at 07 :52 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年7 月9 日

鏡字

 小一の孫からも、年中組の孫からも結構頻繁に「お手紙」を貰うこの頃である。
 字を書く事が楽しくて仕様が無いのだろう、何事につけてお手紙を貰うのが、こちらも嬉しい限りである。
 それはそれで間違いないのだが、少しばかり困る事がある。
 咄嗟には「判読不明」なのである。
 タイトルの言葉をお孫さんをお持ちの方ならご理解いただけるだろうし、ダヴィンチの書だかを研究されていた方も理解できるだろうが、最初はなんと言う文字が書いてあるのか、半分以上が理解できなかった。
 それに加えて、最初はどうにか順に書いてあるのだが、スペースが無くなってくると、「空いていそうな場所」に文字が件の書かれるのである。
 そうなると江戸時代の判じ江よりも難しい。
 そんな訳だから、当然意味など理解できるはずもない。
 で、兎も角「ありがとう」と言って受け取るのだが、在職中もよく言っていたことを孫にも言っている。
 言いたいことは大きな声で人に聞こえるように言いなさい、と。
 で、「なんて書いたか読んで」と言われて困ってしまうのである。
 しどろもどろになりながら読み、判らないところは尋ねるのだが、書いた本人は文字の場所を探しながら「ほらこう書いてあるでしょう」と自慢げに言う。
 「ヘぇー、そうなんだぁ」と感心しながら読むのだが、こんな時間を持ってやれるだけのゆとりが自分の子供の頃には無かったなぁー、と反省すること頻りである。
 子育てよりも孫育てに楽しいこの頃である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :45 | 子育て | コメント(0 )

2010 年7 月8 日

特製ふりかけ

 辛いものが好き、と言うことは、このブログでも何度も書かせていただいた。
 それに加えて、貧乏人のグルメと言うことについても書かせていただいたと思っている。
 その結果というか、今年の初め頃だったろうか、自分流の特製ふりかけを作成した。
 乾燥大蒜はまず欠かせない。
 海草が良いと言うので、乾燥和布。
 元々魚が好きなので、粉末煮干も加えた。
 最近流行の「セサミン」も良いと言うので、白炒りゴマも入れた。
 しかしながら、そのベースとなり、それらのトータルの倍ほどの量を入れたのが「唐辛子」である。
 一度「唐辛子なら何でも良いや」と言うことで、作ったものが、どうしても辛さが出なくて不思議に思って袋を見ると「甘い唐辛子」とあったので、いろんな料理に大量に加えて使い切って、再び「辛い唐辛子」で作った。
 この時点までは、私ほどではないが、そこそこ辛い物好きな家内と娘も食べたのだったが、私としては矢張り少し物足りない。
 それで、昨年栽培していた「ハバネロ」の実をオーブンで乾燥させて粉末にして加えたら、想像していた以上の激辛になってしまった。
 流石に最初のうちは使う頻度が減ったが、暫くするとそれも美味しいと感じられて使っていた。
 この時点で家内と娘には完全に敬遠されてしまった。
 でも、そんな楽しく美味しい特製ふりかけも、そろそろ底を尽いて来た。
 時期の特製ふりかけの材料を現在物色中であり、想像するだけでも楽しくなってくる。
 貧乏人のグルメもここまで来ると、趣味の世界になってしまう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :49 | グルメ | コメント(0 )

2010 年7 月7 日

政治評論家

 参院選挙も今週末になったが、そろそろ政治評論家の舌鋒が激しくなる時期である。
 評論家の先生方も売り出しのまたと無いチャンスである。
 この時期に良く聞いておこう。
 でも、よぉーく聞いていると、所々「待てよ」と言う部分に気がつくのが、面白くも楽しい。
 一昨日のテーマではないが、どちらとも取れるコメントを流しているような評論家は「目クラマシ屋」でしかないのだが、それと似た様な事を舌鋒激しく論じている人が、時々これをやっている事に多分気がついていないのだろうが、その勢いに恐れを感じてか司会進行役の人も含めて誰もこれを指摘しない状況を見聞きする事がある。
 こちらは「声なき聴衆」であるから、そんなに熱くなる事も無いから、気がつくのだろうか。
 今はTVもラジオも「放送(送りっぱなし)」メディアだから、これでいいのだろうが、地デジ化を初めとしてそう遠くない時期に、完全インタラクティブな世界になってくるのではないだろうか。
 また、だんだん進んでくる3D時代にもなり「殴りこみ」と言う暴力沙汰にはならないけれど、双方向(インタラクティブ)に3Dが加わって、議論する番組がゴールデンタイムに行われれば、本音の百家争鳴の世界が実現できるのではないだろうか。
 そうなると、政治評論家だけではなく「評論家」と言う職業が事実上無くなってしまうのではないだろうか。
 私自身としては、そんな世界を望んでいる。
 また、そうなったら、気軽に参加したいとも思っている。
 勿論今よりも熱くなり、論理矛盾の発言にもなるだろうが、それをこそ望んでいて、素直に反省し、自分の知識や知恵に磨きを掛けたいと思っている。
 そうなると、中央、地域と言う差別が大分解消されると思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :22 | 報道 | コメント(0 )

2010 年7 月6 日

孫誕生

 本来昨日書くべきだったのかもしれないが、喜びは少し熟成したほうがジワジワと込み上げてくるものだと思って、今日になった。
 土曜日の晩に陣痛が来たようで、自力で頑張ったようだけど、結局日曜日の午前中になった。
 その間のいきさつは全て娘との携帯メールでのやり取りで、家内共々「聞かされる」だけだった。
 家内共々「とりあえず行って来よう」と言うことで出かけると、ベッドではすでに母子共々健康に実家の家族と談笑していて、正直なところホッとした。
 今までの子供(息子と娘)、二人の孫と様子が違っていたのは、頭髪が黒々・フサフサとしていたことだったろうか。
 そして、空腹なのかそれが生まれ持った癖なのかどうか判らないが、元気な音を立てて盛んに手をしゃぶっていることだった。
 最初は「指しゃぶり」だと思って左程気にもならなかったのだが、携帯のカメラで構えると、指ではなく右手の親指の付け根当たりをしゃぶっている。
 指ならば「手がかり(指掛り?)」もあるだろうに、そこにはなんらの引っかかりもないのに、左程移動することも無くしゃぶっている。
 最初の授乳だと言うので一旦退室したが、それが終わってからは新生児室へ移動したので、空腹のためだったかどうかはわからないが、兎も角生まれたばかりなのに大きな音を発しているのが頼もしい限りだった。
 帰宅後、携帯の待ち受け画面を早速新しい孫のものにした。
 私にとっては第三の孫で、今までは「内の外孫」だけだったのが、「外の内孫」で何とも喜ばしい限りである。
 兎も角皆には、期待が行き過ぎて負担にならないように、元気で素直に育って欲しいと願うばかりである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :18 | 子育て | コメント(0 )

2010 年7 月5 日

明日は雨の降る天気ではない

 タイトルを読んで「ははぁーん」と思われた方は、かつて「論理学」を学ばれたのではないだろうか。
 もしくは落語の枕にも良く使われたので、その道でご存知なのかもしれない。
 また、「何のこと」と言う御仁も居られるだろうから、いつまでも落語の枕として使われ、笑いを誘うのであろう。
 私の場合は会社の研修所で初めて出会った「論理学」で、多分最初の頃に教わった文句である。
 要は、句点を何処に打つかと言うことで、全く意味が変わってくる文章であると言うことだ。
 雨が降る、であれば雨具を用意しなければならないし、雨が降る天気、であれば、雨具は用意しなくても良いと言う事になる。
 そんなことを思い出させたのが、今度の選挙戦である。
 各党のマニフェストには、色々な事が「判りづらく」書いてある。
 果たして自分はどう理解するか。
 その文章の何処に句読点を打って理解すべきか。
 そんな風に考えて自分の気が向く項目について、気をつけて読んでみると、結構面白く読めるし、場合によっては、タイトルと同じような論理になっているところも無きにしも非ずではなかろうか。
 いや、むしろそんな風な文章を作るのが、選挙参謀などの実力なのかもしれない。
 明日の天気を聞きに来た人が、後になって「違っていたじゃないか」と怒鳴り込んできたときに「それはあなたが勝手に解釈しただけで私は正しいことを言ったのですよ」とゆう余地を感づかれないように残しておく事が出来なければ、立派な参謀とは言われないだろう。
 尤も、そんなことで騙される我々選挙人も愚かなのだが。 苦笑

投稿者:つねちゃん
at 06 :05 | 政治への注文 | コメント(0 )

2010 年7 月2 日

選挙報道

 参院選挙投票日までにはまだ1週間以上もあるのだが、報道では「すでに終盤」との事
である。
 そんな訳で、どんな拠り所なのか知らないけれど、すでに与野党の議席数までが(あく
までも予想と断りつつも)実しやかに報道されている。
 残念ながら愚かな民衆としては、それにかなり影響されてしまうのではないだろうか。
 尤も、それに対しての反応も人それぞれだし、かつて経験した事に「あの人はもう大丈
夫だから、こちらの人に応援して」と言う噂が流れ、結局は「大丈夫」とされた人が落選
してしまった事があった。
 果たして報道各メディアは、そんなことを想定してやっているのだろうかと、毎回気に
なって仕方がない。
 別の言葉で言えば「アジテーション」ではないだろうか、もしくは「教唆・扇動」の類
かもしれない。
 ここでどれほど言っても「ごまめの歯軋り」でしかないことは判っているのだが、同様
な趣旨のことは一度新聞投書に取り上げられたから、二度とは取り上げてもらえないだろ
うから、読者の目を汚していると思いながらも、書かせていただく事になる。
 勿論、激昂したり、怒り心頭に発す(余談だが「心頭に『達す』」ではない)と言うほ
どのことではなく、あくまでもこのブログの趣旨としての「ノホホン」精神でのことであ
る。
 今度は反論的になるが、それにしても報道の力(予想力という意味での)とは見上げた
ものである。
 開票率0%にも拘らず「当確」が出るのは、何度か解説は聞いたものの、矢張りスッキ
リと理解しがたいのだが、上記のことは特例として、殆どの場合それが「当たる」と言う
事に毎度の事ながら驚く。

投稿者:つねちゃん
at 08 :57 | 報道 | コメント(0 )

2010 年7 月1 日

嫌いなタレントを公言してもいいのではないか

 好きなタレント(この言葉で表される人種は好きになれないのだが)を公言することは、比較的好意的に見られるのに対して、嫌いなタレントを公言すると、途端に嫌な顔をされたり、強烈な反論にあったりする。
 そんな事に出会うのは私だけだろうか。
 大概の場合は、当たらず触らずの態度でその人から離れて自分の意思を明確に表さないから遭遇しないのかもしれない。
 でも、在職してからの信念の一つとして、先輩の指導も良かったのだろうが「思ったことは口に出して皆に聞こえるように言う」と言う事がある。
 したがって、在職中に全国を飛び回ったり、協力会社やお客様を相手にして、大いにその信念を通したものだった。
 勿論、滅多に無かったが、面と向かって「そんなことを口にするものではない」とお叱りを受けたこともあったが、一度身についた「癖」と言うものはそんなに簡単に払拭できるものではなかった。
 リタイア後は、好き嫌いを結構はっきりと公言している。
 それが「出る杭」だったり「角」だったりしているのは承知しているものの、「出すぎた杭は打たれない」や「角は多くなって丸くなる」と言うこととして殆ど反省などはしていない。
 もっとも、言う場所は心得ているつもりであり、このブログは誰が見ているか判らないので、具体的な名前は挙げないし、2チャンネル的なところにも書く気は無い。
 で、ここまで書いて気が点いた。
 私の「公」と言う場所は矢張りリタイア後「極端に」狭くなってしまったものだと。
 まぁ、それでもいいじゃないか、それが今の自分にあった場所なのだから。
 あぁ、久しぶりに「ノホホン」とした気分の文章になった。
 もちろん、趣旨自体もめちゃくちゃだけれど、自分としては満足である。

投稿者:つねちゃん
at 10 :07 | 興味あること | コメント(0 )

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