まだまだ知らないことが沢山
今まで使っていた知識をフル稼働して、また最近の状況や対策なども集められるだけ集めて少人数を対象に頼まれてPC講習をやっている。
これからの時節で、最も質問が多いのは「年賀状作成ソフト」についてである。
私が使っているのは「筆グルメ」と言う物だが、受講者の中には「筆まめ」「筆王」の方がいらっしゃる。
全て揃えることもできないので、その方のPCで「やってみる」ことから始めて、解決策を見出していっているのが実情である。
ところが、最近、私自身のデスクトップパソコンが、時々動作不良になったのに驚いた。
ネットで色々調べて、何とか解決したが、原因は「PC周りを掃除しろ」と言うことだったようだ。
埃による帯電がその原因であった。
医者の不養生ではないが、まだまだ知らないことが多く、一つ一つ解決して行く楽しみがある。
そんなつもりで、PCに限らず回りを見回してみると、不思議に思われることや、本当に些細なことに疑問が湧く。
漢字の書き順も「そうだったかな?」と思って調べると、全く間違っていたり、正しい順で書くと、なんだか少しだけ上手に書けるような気持ちになる。
また、その漢字の成り立ちについても、時々疑問に思うことが、ネット辞書で解決できると面白い。
何かの箴言に「知るは知らざるなり、知らざるは知るなり」と言うのがあったのを思い出す。
まだまだ65歳、疑問に思ったことや、積極的に「知らないこと」を探して楽しく過ごして生き続けたいものである。
おっと、そう思うこと自体が「知らざるなり」になるのか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :49
| 学習
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マスコミの「知る権利」の濫用を危ぶむ
戦後の生まれだから、戦中における報道管制ということは、現実には知らず、歴史ドキュメンタリー番組などで、塗りつぶしの紙面などを見せられて、思うだにぞっとすることがある。
だから、「大本営発表」だけを無意味に流すことに意味がないことは、充分すぎるほど理解している心算だが、それにしても、最近のマスコミ報道はなんとも情けなくなってくる。
勿論「素晴らしい記事だナァ」と思うものは沢山あるのだけれども、一部の「情けない報道」でそれらが隠れてしまうことも少なくない。
「何でも知る権利」だから、自分が理解出来る、出来ないに関わらず(殆どの場合正確に理解出来ているとは思えないのは、私の僻目なのだろうが)「根掘り葉掘り」聞きまくる。
それだけならまだしも「穿った見方」や「訳のわからない仮定の基での質問」などもぶつけている。
聞いているほうも、多分だが、「知ってどうする」かが全く見えておらず、いたずらに世情の混乱を招いているだけのことが、余りにも多すぎる。
前にも書いたが、「秘策は何ですか」と聞いて、答えないと「秘策は無い様だ」と論じるにいたっては、馬鹿としか言いようが無いのではないか。
たとえば、秘策を聞いたら、その人はどのような行動に出るのだろうか。
「これがあの人の秘策だそうだ」と特ダネでも取った様に吹聴するのだろうか。
最近の外交についても、遮二無二聞きだして、本来の外交に至る前に手の内を相手に見せてしまっているような報道はないだろうか。
外交と言うものは直接は知らないけれど、それに限らず「交渉ごと」と言うのは、直接その場で相手の出方を見ながら行うものだと言うことは、現職時代にもよく経験した。
「国民にだけ知らせる」心算かもしれないが、ある意味で言えば「記者」と言う名を借りたスパイ行為であろう。
尤も、そんな言葉尻や素行を捕まえられるような政治屋が居ることも情けないのだが、残念ながら、それらを選んでいるのは、国民だから、嗚呼。
投稿者:つねちゃん
at 06 :40
| 報道
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座り小便
時々このような、尾篭な話題で申し訳ないけれど、これが凡人のなせる業、とご承知おきくださり、ご笑覧の程を。
加齢のせいもあるのだろうが、もう大分昔の話になるが、ビールのコマーシャルで「コクがあるけど切れが良い」と言うのがあった。
残念ながら、最近は小便をする時に、「糖」と言う「コク」はあるけれど、「切れ」が良くなくなってきている。
それで、出来るだけ家のトイレで小用を足す時には、洋式トイレなので座って済ますことにしている。
終わる時には、多分女性と同じように(幸か不幸か、そのシーンを見たことがないので、想像の世界である)紙で丁寧に筒先を始末して、最後まで搾り出して、後腐れの無いようにしている。
やってみると判ると思うのだが、今まで振り切って始末していた時よりも、パンツの中がひどく清潔に思える実感が時々だが感じられる。
それで、家にいるときばかりではなく、洋式トイレのあるところでは、なるべくそのようにして、便器が汚れていそうな所では、座らないまでも、終わった後は筒先を紙で拭うようにしている。
尤も、他人様の家で用を足す時は、流石に「振っ切る」ことにしているのは、まだやはり少し体裁が悪いので、行っては居ないのだが。
初めのうちは、「面倒くさい」が先に立ったが、一つの習慣にするとさほどでもない。
女性と比較すると、男性の方が「加齢臭」の話題の的になる頻度が高いのは、存外こんなことが遠因の一つになっているのではないだろうか。
僅かかもしれないが、振っ切りで、切りきれなかった小滴がパンツの中に残り、それが少しずつ体臭となっている、と思うと自分だけの気持ちよさでなく、他人様への思いやりとでも思おうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :18
| 日記
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10度以下になった
ベランダで少しばかり花を育てているので、温度計を買ってその推移について記録しているのだが、10月20日についに最低温度が10度を下回った。
あれだけ、出てくる言葉が「お暑うございます」で始まる大変な時期だったし、省エネ冷房で、今までは、入ったら「スゥーッ」とするほど効いていた冷房も、入ってもまだハンケチで汗を拭わなければならない状況に音を上げていたのに、である。
また「春夏夏冬」になるのではないかとの予報なのか、噂なのか、デマだったのか判らないけれど、兎も角暑い時期が過ぎたら、今度は「一気に寒くなりましたネェ」と言う言葉に変わったのが、温度計を見て感じられるようになった。
でも、私にとっては、これは結構良いことなのである。
狭いながらも、家庭菜園をやっていて、そろそろ季節毎に作る物を決めつつあるので、他の物は整理しようと思っているので、ピントが合わせ易く、余り寒暖に影響しないものにしようと思っていたからである。
夏物の整理はまだ茄子やピーマンが残っているが、それも今月中(もう何日もないのだが)に整理して、その後は暫く寝かせておこうと思っている。
昨年思った以上に上出来だった、玉葱も、土にたっぷりと堆肥を施して、昨年の倍ほどの量を植えた。
畑はそれでいいとしても、身体への対処がまだ残っていて、何時までも夏と同じ格好をしていたら、寒気がして、シマッタと思ったが、もう遅く、鼻風邪から、私の特徴の扁桃腺炎に罹ってしまった。
これではならじ、と思い直して、寝具も毛布を追加して、しっかりと暖めることにして、今までは、水割りだったものもお湯割にして、身体の中からも暖めることにしたので、大事には至らなかった。
来年は、と言うのが効くかどうかは別にして、スケジュール表には、この時期身体にも充分注意するように、と書き込んだ。
投稿者:つねちゃん
at 08 :22
| 日記
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イヤダカラ、イヤダ
百鬼園随筆を読み終えて
映画「まあだだよ」と言うのをご覧になっただろうか。
実際の映画館で、家内と見て、その後ビデオを借りて、またTVでやっていたのを録画して、結局3度見た。
それで「内田百?」と言う人物に興味を持ち、この夏ようやく文庫本を見つけて、一日一節というテンポで、ようやく読み終わった。
正直な所、読んでいるうちに、とても私のような「一般人」には付いていけないと感じたのである。
でも、最後の解説で、なんだかすっきりと判ったような気になった。
それがタイトルである。
リタイアしてからは、殆どの「柵(しがらみ)」から開放されたが、在職中はその地位や立場で「これは貴方がやって当然」と言う意味から、否応無く押し付けられ、時には、全く不本意なのだけれど、その組織体の「長」と言うことにさせられ、まさか通り一片等な挨拶もできないので、付け焼刃が見破られないように化粧をして挨拶などをこなしてきたものである。
自分でも判るのだが、そんな時、帰宅してからの機嫌は悪い事。悪いこと。
今では全くそんなことにはならないように「イヤダカラ、イヤダ」を余り誇張することなく、やんわりと拒否させてもらっている。
これは、なんとも健康に良い事だと自分では思っている。
そうなると、組織体に所属していても特別の地位や立場もないので、「イヤダカラ、イヤダ」で通せるのでラクチンである。
映画は楽しく、文庫本は難しかったが、最後の解説でかなり理解出来たように思う。
今後もそれが言えるように同意できることには積極的に参加し、その中でも「イヤダカラ、イヤダ」を言えるよな平凡な人間でありたい。
これこそが、健康の元であろう。
投稿者:つねちゃん
at 08 :10
| 健康
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ラジオショッピング
最近聞いているラジオのショッピング案内は、体の良い「押し売り」ではないだろうか。
「この番組を聴いている方だけの特典」「何時何時までの期間限定のは特典」「〇〇セットだけの特典価格」など等
言葉こそ柔らかいが、「限定商法」という押し売りの手法であろう。
宣伝方法の一つだと言われれば、反論しようも無いのだが、それにしても「下品な宣伝方法」と言わざるを得ないのではないか。
これは、何も「ラジオ」に限った訳ではなく、テレビでも、場合によっては新聞紙上でも似た様な方法をとっている。
全く同じものを、別の媒体で見たら、そこには特別「限定」などと記されておらず「普通」に売られている。勿論値段もそんなに変わらない。
よくよく考えれば、わかりそうなものだが、「限定」と言う「脅迫文句」に普段親しみを持って聴いているアナウンサーから言われれば、そんな普通の判断基準は吹っ飛んでしまうのだろうか。
家電が一番感じることではないだろうか。
「下取りしてこの価格」と言うのもあるが、家電量販店へ行って、同じものを比べてみると、殆ど大差ない。
「下取り」するとその分価格が安くなるような物言いだが、家電量販店へ行って「下取りしてもしなくても」同じであることが多い。
それなら「売りっぱなし」のショッピングよりも、「何かあったときに面倒を見てくれる」と言う身近な店の方が余程安心と言うものだと思うのだが。
兎も角「限定」と言うものには、眉に唾をつけて「騙されないように」一度気分を落ち着かせて回りを見回してみるに限る。
特に「0円」と言うものには、昔から言われるように「只ほど高いものは無い」と思うことにしようではありませんか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :52
| 報道
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ふと思いつくこと
時々なにかのきっかけで、殆ど忘れてしまったと思っていたフレーズが口からでてくることがおありではないだろうか。
朝起きて、昨日までのことに感謝しながら、「今日もより良き日が過ごせますように」と願いながら年間のカレンダーに丸印をつけていることは以前にもご紹介したが、その絵が、山間に向かって少し曲がった道のりの物である。
今年の今までそんなことはなかったのだが、ある日ふと「山のあなたの空遠く」というフレーズが何とは無しに口から出た。
ご存知のとおり、カールブッセの詩であり、確か中学生時代までには誰もが耳にし、音読もしただろう。
尤も、より印象強く耳に残っているのは、やっぱり三遊亭歌奴(現圓歌)師匠の「授業中」でのものだろうか。
さいはひ(幸い)を求めて山の向こうへ行ってみたけれど・・・、というものだが、ここまでメタボリックの真っ只中ではあるものの、子や孫にも恵まれ、両親を見送り、まさに「さいはひ」の中にいる事に、やっぱり感謝したいと思って、口から自然に出た言葉だったろう。
これと同様に思い出すのは、メーテルリンクの「青い鳥」童話である。
いままでは、「もっと別の幸せがあるに違いない」と我武者羅に追い求めていたが、気がついてみれば、今居ることが幸せだと思える歳になったのだと素直に思える。
勿論、凡人の凡人たる故から、頻度は減ったが、年末ジャンボなどを初めてしての宝くじや、僅かな刺激を求めてのパチンコなども追い求めているのは、全く別の次元だと、勝手に思っている。
でも、それができるのも、現在が「さいはひ」の中にあるからだろう。
改めて、昨日までへの感謝と、今日一日が平和であることを願うばかりである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
| 日記
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ブランドになったら高くてもいいのだろうか
ブランド食品というのは、各々の土地での物で、自分の身の回りには、余り関係が無いと思っていた。
ところが、最近県内ばかりではなく、住む土地での物もブランド化ということで、全国販売を狙っているような気合である。
それはそれでいいのだろうが、少しだけ気になるのは、僅かだろうが、価格が上がっていることである。
確かに出所の正しい肉や卵などを使っているのだろうが、それにしても、ブランドということにしただけでわずか10円くらいだけれど高くなっているような気がしてならないのは、私が吝だからだろうか。
かつて、宮崎県知事をなさった方が、特産の果物をブランド化して首都圏で売り出したら、高値で売れたので、地元ではとても高価で買えなくなったという話を聞いたことがある。
先日、ある新規開店の食品街へ行って、ブランドとして名高くなった食品を期待を込めて購入したのだが、まったく残念な物だった。
具体的な商品名や町の名前は、営業妨害になるのであえて書かない。
ブランド化、というのは、売る側が決めるのではなく、購入者が口コミで「あれが良いネェ」ということで決まっていくのではないだろうか。
だとすれば、価格もそんなに高くならず、基本的には地元の人優先で供される物ではないだろうか。
勿論、全国的な宣伝は必要だろうが、基本的に食品は特にそうだと思うが、価格ばかりでなく、その土地土地の風景などにも大きく影響を受けるものだと思う。
そうして自然にブランド化となったものは、息長く継続するだろうが、売る側が叫ぶブランド商品の寿命は、果たしてどうなるのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :36
| グルメ
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日本の不動産を外国人が買ったら
何も尖閣や竹島のことばかりではなく、札束で殴りつけるようにして日本の不動産が外国人に買われて、「私の領土」と言われた場合の法律的な対応はなされているのだろうか。
勿論、上記の問題は、単に不動産の所得と言うのではないことは、朧気ながら理解は出来るが、私もそうだが、日本人の良く言えば「みんな仲間」と言う意識、悪く言えば「島国根性」と言うことで、商法というものは、元々「習慣法」が明文化されたものだから、そんな習慣で作った法律が、これだけ諸外国の関係が複雑化している中で、果たして適正に見直されているのだろうか。
アパートやマンションの取得などは、まだ「個」としての課題だろうから、何とかなるとしても、山林などについては、果たしてどうなるのだろうか。
私の友人が、かつて「山」を買ったと聞いた。
今では、綺麗に薔薇を中心とした庭園にして、春には「ご自由にご覧ください」と趣味の果てに我々に目の保養を与えてくれている。
ところが、明確な境界線と言う物が、どうにも怪しいのだと言う。
他人のことばかりではなく、我が家の敷地は、きちんと登記簿上もはっきりしているのだが、畑となると、どうにもはっきりしていないのが実情である。
そんな中で、「この山の水資源は、所有者の私の物だ」と外国人(何も中国や韓国に限らない)が主張したらどうなるのだろうか。
確かにお金にはみんな弱いのだが、それにしたところで、土地に代表されるような不動産を外国人に売る場合は、余程慎重にしないと、後で「売国奴」と揶揄されることになりかねない。
私には、現時点でそんな心配は無いが、身体が怪しくなった時には、真っ先に「日本人の信用の置ける人」に売却したいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :52
| 健康
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お金に換算できない楽しみ
ある朝の行動である。
朝5:30から、帰りは9:30、釣果(僅か鱚3尾だけだが)を捌いて10:00。
釣りに全く興味の無い人にとっては、餌代、ガソリン代などを考えると、とても合わない趣味だと笑われるだろうが、本人は至ってご満悦である。
朝の海風を思い切り吸っての投げ釣り、普段使わないところの筋肉を伸ばして行う運動は、何よりにも増して楽しい。
概して私の趣味は、他人様から言わせれば「時間とお金の無駄遣いのダブルヘッダー」と謗られよう。
いやいや、それは何とも思わない、面と向かって言われても「そうだろうナァ」と臆面も無く答えられるだろうと思う。
このブログでも、何度も書いたが、リタイア以降は「争う」ことは基本的に避けている。
勿論、その元気も無くなって来ているし、勝っても負けても(勿論こんな状況だから負けることが圧倒的に多いのだが)特別気にもならない。
達観とか諦観などという立派な言葉も、後になって気がつく言葉で、その時には「そうだよネェ」で済ませていることばかりである。(と本人は思っているが、場合によっては、その態度自体が気に喰わない、と思っていらっしゃる御仁もいると、後で他人から聞くことがある。
話は元に戻って、ささやかな趣味を銭金で評価することはできないし、する気にもならないのは、何とも贅沢な話ではないか。
晴れて気持ちに良い朝、海岸で形振り構わず、竿を振り、思い切り潮風で深呼吸し、時には周りに誰もいないことを確認して大声を出す。
これを誰がどのように金銭換算しようが、私には萬金に代えがたい楽しみであることは言うに及ばない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :04
| 趣味
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マヨネーズにジョロキア
諸姉・諸兄は生野菜を食べられる時、何で食べられるのだろうか。
塩をパラパラ、お好みのドレッシングをその日の気分で変えるという方もいらっしゃるだろう。
我が家の孫は、生意気にも「うーん、今日は何の気分かナァ」などとのたまうから、正直、その成長振りに驚くとともに生意気だナァ、などと思ってしまう。
血圧の関係で塩分の取り過ぎを注意された時までは、殆ど「あじ塩(商品名になるが)」がメインだった。
で、次に使ったのは、やはり和風で「醤油ドレッシング」だったと思うが、記憶が定かでないのは、期間が短かったせいだろう。
リタイアするまでは、血圧も血糖値も注意されたことがなかったので、まるで気にせず「そこにある物」を使っていたから、およそ「嗜好」という考え方ではなく「餌」だったのだろう。
リタイアしてから、最近までは殆どマヨネーズを使用していて、孫も「爺ちゃんはこれね」と持ってきてくれる。ありがたいことである。
でも、最近はギネストップの辛さと称される「ジョロキア」を使い始めたので、耳掻き2掬いほどにマヨネーズを混ぜて使うことで、辛さが程好く加えられて、私にとっては最高の調味料になっている。
以前娘の友達から「ハバネロ入りマヨネーズ」を私が辛い物好きだからと言ってもらったが、その後買ったと言う店へ行っても無く、店員さんに聞くと「売れないもので仕入れていない」とのことだったので、諦めてしまっていたのである。
ジョロキアは、まだ小袋が一つ、冷凍保存してあり、当分楽しめそうである。
それが無くなれば、まだハバネロの実が加工せずに冷凍保存してあるので、それをまた使える楽しみがある。
勿論、夏の暑い時には、流石に使う気が無く、秋から春までの限定製品である。
決して、お勧めはしないが、本当に「たまぁーに」置いてある店があるから、箸先を濡らす位から試してみても、話題づくりにはなると思う。
投稿者:つねちゃん
at 09 :36
| グルメ
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交通安全期間
今年の秋の交通安全期間も、わが地区では事故なく無事に終わった。
だけど、毎年、曜日や各種の行事に関係なく、21日から10日間であることに最近疑問を持ち始めた。
私が当番で街頭指導に当たる場所は、小中学生の登下校ポイントに当たるのだが、それ以外の時間は、殆どが車ばかりで、時折高齢者などの歩行者や自転車の方が通られる程度である。
勿論、交通安全運動は「交通弱者」が主な対象だから、それに対する苦情ではないが、それならば何故土曜日や日曜日が「立たなくていい日」になっているのかが理解できない。
それでも、秋や春はまだ良いとして、冬や夏も同様に21日から10日間となっているのだが、始まって直ぐ位には「夏休み」や「冬休み」になってしまうのである。
早朝と言うほどではないが、7時過ぎから8時までは殆ど人通りが無い町角に、立っているのは、正直余り意味がないように思える。
それならば、その機関だけ10日間早めてはどうなのだろうか。
こんなことをやっているのは、警察も「国民や交通弱者」のことを考えているのではなく、「やっているぞ」というデモンストレーションだけではないだろうか。
お役所と同じ「前例が無い」という論理だけで、形式的にだけやられたのでは、堪らないと思うのだが。
もし仮に、そんな休みになる前に事故が起きたら、どうするのだろうか。
警察も「事件が起きてからでないと民事不介入と言う意味から行動できない」と何時までも思っているのであれば、それこそストーカー事件などは無くならないだろうし、形骸化の運動と言われてもしようが無かろう、と思うのだが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
| 交通安全
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きちんと投票していないで、文句ばかり言うのは無責任
兎角評論家と称される方々は、いろんなマスコミで「今の政治は成っていない」と仰り、一般庶民をアジテートなさっている。
私を含めての一般庶民は、大概の場合「そうだそうだ」と呼応するのである。
でも、これは、与党と野党が交代しても、相変わらずで、交代したから「良かったネェ」と言う評論家は殆どいらっしゃらないのではないか。
もしそんなことを言ったら、その評論家は、非難されたりすることはあっても、二度と評価されることは無いだろうから。
もっとも、与党となった人たちから「学識経験者」ともてはやされて、生活するには困らなくは成るだろうが。
翻って、一般庶民は「草の根運動」と称して、とにもかくにも「ハンタアーイ」と言い続けることになるのだが、これは残念ながら殆ど何の力も無い。
違っていることを望みたいが、そんな人の中の多くが、果たして「自分の意見で」投票しているのだろうかと思う。
会社や所属組織の方針などでその組織体が応援する人に投票していたりしてはいないだろうか。
そして「今の政治は成っていない」というアジテーションに呼応してはいないだろうか。
自分の意見で投票したのであれば、その人を当選させ、その上でその人に「こうすれば良い」と意見を述べ、もしそれが通らなければ、リコールという運動にでも発展させれば、「何でもハンターイ」と言ってデモ行動をするよりも、余程効果的だと思うのだが。
勿論、そういう私はどうしているかというと、そんなに激しくはしていないが、メールという手段で、幸いにして当選している議員さんには意見を申し上げている。
勿論ねそれだって「蟷螂の斧」と言われればそれまででしかないのだが。
投稿者:つねちゃん
at 05 :38
| 日記
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「しつけ」として殴った
私はゴルフと言う物は、練習していて、事件にはならなかったが、肝を冷やしたことがあって、それ以来絶対にやらないと決めている。
いやいや、歳がある程度に達すれば、いい運動だから、そのうちにやるさ、と言った人もいたが、65歳を超える今でも全くその気にならない。
勿論、だからと言って、やっている人を揶揄する気持ちは毛頭ない。
そんなど素人だから、「練習用クラブ」というものがどれほどの物かも知らないのだが、表題の事件が先日起こったのには驚いた。
このブログでも、何度か言ったと思うが、基本的に「体罰」は必要だと思っている。
ただし、そのためには、絶対的に必要な条件がある。
体罰を与える方は「自分のやっていることがどれだけのダメージを与えていて、それが耐えられ、世間的に許されるだろうか」と言う事を充分に自覚し、与えられる方は「与えている方も同様にダメージを受けているのだ」と思うような体罰になっていることである。
一般の人よりも少しだけ早く電子通信の世界に入り、仕事のことなどは殆ど「電子メール」で済ませてきた私が言うのもおかしいと思われる方も多かろうが、その反動としてかも知れないけれど、「飲みニケーション」にはかなりの時間とお金を使った。
豪気で言う訳ではないが、大蔵省である家内から、月に小遣いを10数万貰っていたが、その殆どが「飲みニケーション」に費やされた(した)時がある。
そこでは、これも何度か紹介したが「右手には座るな」というくらいの「体罰」派だった。
当然そんな私を忌避する人間もいたが、多くは甘んじて受け入れてくれ、注意したことは直すと共に、その部下にも伝えて行ってくれたと、後で聞いたときには嬉しかった。
仕事などの命令や指示には、確実性を確保するために電子メールも良いが、それで意思が通じ合うためには、日頃の対話による付き合いが必要である。
どうか、先ずは「体罰を与えそうな方」に知ってもらいたい。
その体罰を自分が受けた場合、どれほどのダメージを受けるのかを。
かつて、往復ビンタを受けたことがあったが、そのときの先生の眼にはたっぷりの涙が浮かんでいたことを思い出す。
投稿者:つねちゃん
at 08 :02
| 子育て
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「WWW」と言わないで
私自身は、TV番組は録画して、同じ番組でもテーマによっては直ぐに消しながら、時間節約を心がけている。
そういう意味で、ラジオ番組は「ながら族」で育ってきたので、聴きたい番組は当然あるのだが、そんなに選択は厳しくしていない。
そんな中でもFM放送よりもAM放送の方が話題の地域性という点と私だけかもしれないが、年代が合うような話題が豊富で好きである。
最近、夕方から外国放送の混信があって聴けない状態だった局がFMでも放送されることになったり、ネットでも聴けるようになったので、重宝している。
そんなラジオ放送で、最近良く耳にするのだが「詳しくはWWW・・・で」と言う言葉がある。
私自身は、ネットをよく利用するので、直ぐに理解は出来るのだが、多分この言葉を聞いて「私には関係ない話」とされている人も多いのではないだろうか。
在職中に、よく注意されたことに「難しいことは、相手のレベルを考えて、判り易く話せ」があった。
そういう意味から、「細かいことはネットで調べてみて」と突き放したような対応を唯々諾々と繰り返していると言うことは、アナウンサーと言う「喋りのプロ」としての意識がなくなっていて、その向上の努力をする気持ちも無いのではないだろうか。
放送で、上手に表現すると言う技能が損なわれているのではないか。
それで「ラジオを身近に」と言ってみても、元々「判らせよう」とする努力をしていないのだから、衰退の一途を辿るばかりではないか。
私の好きなAM放送で、地域や年齢相当の話題も好きだが、「難しいことを判り易く、聞きながらでも理解できる」アナウンス技術をもっと磨いて欲しいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :22
| 報道
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転ばぬ先の杖
表題の言葉は、しばしば「精神的な心構え」と言う意味で使われる。
在職中にもいろんな面でそれを言われたが、幸か不幸か、言われるのが「後になって」だったことが圧倒的に多かった。
「そら見ろ」というような意味だったのか「ザマァ見ろ」という意味だったか、もしくは「次から頑張れよ」と言う意味だったかは、今は昔の話だから、思い出したくもないが、少なくとも「出る杭は打たれる」的に言われたのは確かである。
今日の話題は、そんな物ではなく、純粋
に物理的なことである。
カッコ悪さに一度止めていたが、9月から始めた散歩でまた持ち歩くことにした。
季節の変わり目には、確かに昔の瑕が痛むこともあり、杖が随分物理的に助かることもあるが、幸いにして、通常の散歩では殆どそんなことがない。
行く手の蜘蛛の巣を払ったり、少し枝が道路に張り出している所では、その枝を傷つけることなく、道を譲ってもらったりするのに、随分役立つ物である。
最近では滅多に見なくなったが、リタイアして散歩を始めた頃に、蛇に遭遇したことがあったが、その時は手ぶらだったので、「こんな時に杖があつたなら」と思ったものである。 このようにして、転ばぬまでも随分と役に立つ。
だからと言って、最近流行っているのかもしれないが「ノルディックウォーキング」のように積極的な運動具にはしていない。
随分昔に「伊達めがね」と言うのが一つの「はやり」だったが、それと似たようなものである。
勿論「何も持たず」に歩いていらっしゃる人も多いが、それよりも多いのが「犬を連れて」の人である。
昔噛まれたトラウマで嫌いだが、それと似た様なものかも知れない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :42
| 健康
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ラジオ/テレビショッピング
表記のことは、やっぱり「一つの報道」なのだろう。
聞く気はないのだが、CMの様に普通の番組の中に紛れて流されると、気が付かないうちに耳目がひきつけられる。
「今だけ」「お聞きの人だけ」と言うような「限定」を付け加えられると、視聴者を惹きつけられるとでも思っているのだろうか、何とも浅墓な考え方である。
あるとき、同じ製品の宣伝を別の地域で聞いたことがあるが、地域名や放送局名を変えただけで全く内容が同じであることに、なんだか白々しい思いをして、いっぺんにその商品に疑念を抱くようになってしまった。
また、これはある意味で私の専門分野ということになるのかもしれないが、パソコンを初めとして、電化製品がまともには信じられないような価格で宣伝されることがしばしば耳にする。
「価格がなんとワンコイン(500円と言うことらしい)」場合によっては「なんと、今申し込めばゼロ円」と言う物まである。
ところが、宣伝費だって、只ではないし、慈善事業をやっている訳ではないのだから、わざわざ「ゼロ円=無料」と言う物を宣伝するはずはないのである。
背景には、「当社推奨の通信会社との契約が必要条件」だったりするのである。
最近のパソコンは、インターネット接続が前提条件で販売されているのだから、「私はネット接続は必要ありません」などとは言って居れないのである。
通信会社のOBとしては、その会社を使って欲しいけれど、さりとて、「当社推奨」の会社が特別高いかどうかは別として、やはり何か怪しげな背景を感じてしまう。
あるとき、PC講習をしている受講者の人が「どんな機種も全て4万円くらいだった」と教えてくださった。聞くと「バーゲンセール」で期間限定だという。
Windows7の機械が欲しかったので行ってみると、上記のとおりの条件ならば、それだけ値引きしますよ、と言うことで本来の価格はその文字よりも随分と小さく書かれていた。
新種の「おとり商法」と言われても仕方がなかろう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :25
| 報道
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味噌汁の具を考えるのが楽しい
主夫として定着した作業の一つに「朝食時の味噌汁作り」がある。
今までは、朝起きていって、冷蔵庫を開いてみて、目に付いた物を具にして居たのだから、いわば「手当たり次第」だったので、「責務」と言うような作業だった。
ところが、ここ数年(少し言い過ぎかもしれないが)は、いろんなことを予め考えるようになってきていて、それが随分と楽しくなっている。
先ずは、マンネリ化を防ぐために、昨日の朝の具と同じではないか、昨日の夕食時の残り物で使えそうなものはないか、それは同じ類ではないか。
また、これから涼しくなるので、具沢山のほうがいいのか、暑い時には具を少なくして、冷やす時間も見込まなければならないから、短い時間で冷えそうな具は何か。
自分の主食は、熱々のご飯か、大好きな残りご飯の炒飯か、それもカレー味か、コンソメ味かまたは、すっきりと醤油味の和風か。
こってり系かあっさり系か、色々考えると、楽しくてきりがないくらいである。
また、食後の漬物にまで気が行く。
たとえば、納豆掛けご飯の場合は、ご飯に付いたネバネバを漬物で落とすのが、一つの癖になっているが(決してみっとも良くは無い様だけれど、健康的には悪くはないと聞いたことがある)漬物は沢庵か薄切りの生姜かで洗い方が違ってくるので、味噌を少し少なくするかどうか。
まだまだ考えれば、ドンドンと考える要素が出てくる。
また、忘れてならないのは、在庫品の賞味期限である。
豆腐などは、やはり期限切れにならないようにと配慮して、我が家の二人の主婦にお伺いを立てながらも、計画的に使わなければならない、それもまた楽しい限りである。
もちろん、時には時間的な制約などで、インスタントを使うこともある。
その場合には、味噌汁だけではなく、お澄ましや中華風のお吸い物も対象となり、ますますバラエティが豊富になり、迷ってしまうのだが、そんな渦中に居ることも、楽しい限りである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :36
| グルメ
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挨拶は「肯定」の言葉から
まだ暑い日が続いていたが、朝晩はめっきり涼しくなってきたある日の朝、散歩に出掛けた。
近所のおばあさんから「毎日暑い日が続きますネェ」と声を掛けられた。
まだ歩き始めたばかりだったので、Tシャツ1枚で涼しいを通り超すくらいの気温だった。
でも、「ええ、そうですネェ」と答えた。
本音と建前、と言う訳ではないが、やはり朝一番の挨拶に、いきなり「いえいえ、ひと頃よりも随分涼しくなりました」と答えるのは、咄嗟に気が引けたのである。
でも、多分在職中の私だったら、果たしてこんな受け答えをしただろうか、と思った。
いつも言うように「団塊の世代」の真っ只中の我々は、内容は知らないが、常に「狭き門」ばかりを潜るように言われていて、競争時代だったように思う。
私は大体の場合、今で言う「負け組」だったのだが、「負けん気」だけは旺盛で、負けると判っていても競争した物だった。
在職中も「負けて堪るか」と言う気分と「勝てば何かが良くなる」とばかりに、反抗心を剥き出しに生きてきた様に思う。
だから、相手の言葉にはすばやく「先ず反対」と言う具合に構えたものだった。
これが、課長や部長になっても、言葉こそ柔らかいが「まず反対」となって、闘争心むき出しだった様だ(そんな意味で注意してくださる上司も居られた)。
そして、リタイアして10年も過ぎて、今は上記のような対応がすんなりと出てくるようになっている。
果たしてこれは退化なのだろうか、それとも「実るほど頭を垂れる」と言うことの体言なのだろうか。
多分、前者なのだろうが、それはそれで気持ちが良いものである。
今月には、職場のOB会があり、卒後50年の同窓会もあるが、果たしてどちらの顔が出るのだろうか、現実の自分を置きながら、一方で第三者的な立場にもたち、双方を楽しんでみたいと思っている。
投稿者:つねちゃん
at 08 :57
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正しく歩きたい
怠け癖と「暑いから」で随分と長く休んでいた朝の散歩も、9月から再開した。
以前履いて居て、休んだ一つの理由(言い訳でしかないが)が靴だった。
何故か左の親指が変に圧迫されて痛く、「安物買いの銭失い」を身に沁みて思った。
それで、再開に当たって先ずその改善からと言うことにして、自分勝手に選ぶのではなく、靴屋さんに「こんな目的で使いたい」と言って選んでもらった。
勿論「あんまり高価な物でなく」とも付け加えたのだが、結果としては8,000円を越す物になった。
結果としては、現在までのところ頗る調子が良いから、文句はない。
歩き始めて何人かの知人に会ったが、「その姿勢がいいネェ」とか「その速さだったら充分にエクササイズになっているね」とか、相手の言葉を「話半分」としても、我が家に吊るされている箴言ではないが、「褒められると気持ちがいい、幾つになっても」である。
自分なりにも、以前から「姿勢良く」は40年以上も前に習ったダンスの「ウォーク」が活きているのだろうし、速度は「歩幅は身長の半分を目標に」と言う確かTV番組からの知恵だったので、まだ5−60cmだが、意識しているからだろう。
でも、人間と言う物は、欲なもので、まだ自分の歩きに不満足な点が幾つかある。
その最大の理由は「膝が摺れない」と言うことである。
いわゆる「がに股」なのである。
これも40年以上も前だが、柔道を習っていて、実力は兎も角、一応講道館中野道場の免状で「初段」を貰い、黒帯を身につけた時もあるのである。
その時のものが直らないのであろうか。
それさえ克服できれば、まだ幾つかの改善点(たとえばできるだけ大きく腕を振る、など)はあるものの、人から「本当に良い歩き方をしているね」と評されるようになるのだろう。
それこそ「一歩ずつ」「正しく歩く」に向かって行きたいと思っている。
勿論、エクササイズ目的のウォーキングではなく、あくまでも「周りを見ながらののんびり散歩」が基本である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :50
| 健康
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常にプラスとマイナスを見たい
物には当然だが、プラス面とマイナス面がある。
通常の状態では、この論理に反対する人は、まず居ないだろうし、もし居たとすれば、余程の天邪鬼か、どこかの政党のように「何でも反対」の人だろうから、そんな人には何を言ったって仕方ないから、相手にしない。
ところが、自分に直接関係ない話題でも、大体の人は「確かに両面があるよナァ」と言う事に賛成し、そのプラス面とマイナス面を少しの差こそあろうが、大体同じように考えるものであり、私も同様である。
ところが、これが少しでも、自分に関係があることになると、マイナス面を過大に評価し、プラス面を過小評価してしまうことになり、とても第三者の言うことに賛同することは無い。
「あんたは関係ないでしょ!!!」と言うことになってしまい、「聴く耳」や「考える頭」と言う大事な部分を失ってしまうのが常である。
何も、最近話題になっている、国際的な領土問題や、オスプレイに代表されるような問題ばかりでなく、政党間の争いや、似て非なる団体との議論など、ひいては同じ目標を持ちながらそのプロセスについての本来友人同士の議論にまでもこの考え方が持ち込まれている。
決して、私が常に平等な立場であると言っている訳ではないし、そんなに自分が立派だとも思っていないが、先日まさにそのような場面にあったので、このテーマを思いついたのである。
今まで何度と無く議論してきた筈のメンバーに、何故か頼まれて出席したのだが、どちらも熱くなってきていたので、お互いに両面を出してもらった。
幸いに、そんなに大きな問題で無く、目標が同じなので、直ぐにお互いに理解しあえたので、後で誘ってくれた友人から随分感謝された。
そういう意味では、私はピエロだったのかもしれないが、誘った友人の知恵だったのだろう。
いつも、片方だけ見るのではなく、出来るだけ同じ重さで両面を見たいものである。
言うは易く、行うは難し、ではあるのだが、できるだけそうありたいと思いつつ過ごしてゆきたい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :00
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政治家はスーパーマンじゃない
マスコミは、与野党関係なく、政治家にスーパーマンを求めて、そうでない事を批判するのがお好きなようだ。
この事は、決して今の政治屋さん諸氏を評価する意味ではないが、余りにもマスコミや「評論家」と自称する諸氏の言葉が、一般人に「今の国が悪いのは、政治やさんが悪いからなんだよ」と煽っているように聞こえるからである。
それじゃ、「百歩譲って」マスコミや評論家の言うとおりにしたらどうなるのだろうか。
全てのマスコミや評論家の主張していることが一定であるならば、あるいはそれが正論かもしれないが、現実にはそうでない。
またまた、「千歩譲って」一定の方向だったとしても、それは殆どの場合「一面的」でしかないだろう。
それほど、マスコミや評論家と言う「白痴」共の戯言は、底が知れているものである。
この国民にして、この政治家あり、とはよく言われるが、世の白痴共野戯言に左右されることなく、一面的であるのは仕様が無いとしても、「団体や会社の利益誘導ではなく、自分で考えて『政治家』を選んではどうだろうか」。
そうすれば、自分が選んだのだから、それが間違っているとしても、ある意味で「スーパーマンじゃないのだから」と諦めも付くだろうし、場合によってはその政治家に「苦言を呈したり、提案する」ことだって出来るのではないだろうか。
そういう状況で始めて「この国民にしてこの政治家あり」と言えるのではないか。
今は残念ながら「ないものねだり」のマスコミや白痴ばかりの評論家、または所属団体や企業の利益誘導に「指示」されているばかりで、スーパーマン政治家の出現を待っていたのでは、政治批判などはそれこそ「戯言」と言われてもしようがなかろう。
投稿者:つねちゃん
at 07 :06
| 政治への注文
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